2013/02/16

Let them know they have a lot of options.

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昔のような理屈で体罰を擁護することはできない 橋下市長の対応が妥当な理由

http://blogos.com/article/56204/?axis=&p=1
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この記事のタイトルは明らかに「釣り」だとは思うが、いくつかの重要な問題点を示唆してはいる。

さて、ユートピアなどどこにもない、という前提で。

たとえば、スウェーデンの教科書(中学~高校生向け)では、未成年が罪を犯した場合、どのような手続きを経て処分がなされるかが教えられる。もちろん、だからといって、スウェーデンには犯罪者などいない、ということはない。しかし、その教育水準の高さが評価されていることも確かである。

「ルールを守れぬ場合、何らかのサンクションが科される」という前提そのものに疑義をさしはさむことはできない(これを疑った場合、法治国家としての体裁は崩壊する)。

問題は、学校が社会のルールと乖離したルールで動いているということだ。たとえば先ほどのスウェーデンの例では、学校で社会のルール(子どもが犯罪行為を犯した場合の手続き)を教えている。だが、日本では、そうした教育はなされていないはずだ。じぶんがものを盗んだり、誰かを傷つけた場合、どのようなサンクションが科されるのかもわかっていない、ということになる。

たとえば、この文章を読んでいる人の中で、被害届と告訴状の違いや、告訴状の書き方を知っている人がどれくらいいるであろうか。

もちろん、こうしたことを教えたからといって、学校で起きた出来事を何もかも警察の手に委ねたり、法的に対処するということは非現実的ではある。

だが、度が過ぎる行為を学校内ですべて対処しようとすることは明らかに、学校で処理できる限度を超えたものであるし、先日書いたことだが、〈逃げ方〉や〈闘い方〉を誤って命を絶つことにもつながりかねない。

せめて、子どもが逃げ込める第三者機関を介在させ(もちろん、場合によっては親の協力も不可欠になる)、問題解決に至るようにサポートする必要がある。学校にカウンセラーを配置するのも必要だが、むしろ、子どもがすぐに相談できる弁護士を配置させた方が良いかもしれない。

どんな対策を講じても、残念ながら、死ぬことを選ぶ子どもは出てくるであろう。死刑が存在しても、殺人を犯す人がいなくならないように。だが、死ぬこと以外にも選択肢があるのだ、ということを知らないまま死なせてしまうことは避けねばならない、と思う。

2013/02/09

Concerning a school excursion...

http://hamusoku.com/archives/7719143.html

「教員がパスポート預かるも紛失→生徒一人が修学旅行に行けず→先生は参加ってひどすぎワロタwwwwww」

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 埼玉県教育委員会は4日、県立川口工業高校の40代の男性教員が、修学旅行前に担任するクラスの生徒から集めたパスポート28冊のうち1冊を紛失し、男子生徒1人が修学旅行に参加できなかったと発表した。保管していた机は施錠しておらず、県教委は「管理が不十分だった」として教員の処分を検討している。

 担任は1月下旬頃に男子生徒のものがなくなっていることに気付いた。探したが見つからず、出発前日に生徒と保護者に謝罪。

 担任は引率のため修学旅行に参加したが、生徒は参加できず、この間は学校に登校したという。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130204/crm13020418210016-n1.htm
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このニュースを読んで、ふと、じぶんの中学生の時の修学旅行のことを思い出した。

中学3年生の修学旅行は東北地方であった。一人の男子が、病気で行けなかった。そこで、「夏休みにクラス旅行をしよう!」ということになった。もちろん、担任のK先生も一緒に。確か四十代半ばぐらいの女性だったはずだ。

幹事は、鉄道ヲタで旅行好きな学級委員のぼくに決まりw、一泊二日で旅程を立てた。

学校から予算など出るわけではないので、できるだけ低予算におさめなばならなかった。その当時ぼくはユースホステルの会員で、長期休みのたびにユースであちこちに旅行をしていたから、どこか手ごろな場所を探し、埼玉県の「鎌北湖ユースホステル」に決めた。

たしか、池袋駅から西武池袋線のレッドアロー号で飯能(東飯能だったかな?)まで行き、そこから延々と山道を歩いてユースに向かった。ハンドブックに書かれていた所要時間よりもかなりかかった気がする。夏場の暑い中、黙々と歩いた。途中、滝があり、そこで水浴びをした(というか、「こんなに歩かせたんだから罰として滝に打たれて来い!」と友だちに言われたような気もするがw)。

やっとの思いでユースに到着。ユースホステルなので男女は別々の部屋。担任の先生も引率で来ているから、当然、悪さなどしようはずがないw

夕食を食べ、風呂に入り、皆、へとへとになって寝た。

翌朝、共同の洗面所のところで女子が数人、何やら騒いでいる。

「朝シャンしたい。」

しかし、風呂が使えるのは夜のみ。ユースのペアレントさんが済まなさそうに洗面器にお湯を汲んできてくれたが、結局、彼女たちは断念したw

朝食を食べ、反対側に下山。炎天下の中、八高線の毛呂山駅を目指す。途中、公営のプールがあり、そこに立ち寄って泳ぎ、ユースで作ってもらった昼食のおにぎりをほおばった。

毛呂山駅に着いた頃には、全員ぐったりしていたwww

そこから八高線(当時はまだ電化前で、キハ35が走っていた)に乗り、高崎へ。高崎から東北線に乗り換えて上野へ。そこから電車を乗り継いで地元の駅までたどり着き、解散というスケジュールだった。

これはこれで良い思い出なのだが、その後、思いがけない話を聞いた。


実は、この旅程を担任の先生に提出した後、先生と数名の保護者が現地まで下見に行っていた、というのだ。

そんな話は全く知らなかったから、驚き、感動した(と同時に、あんな大変な山道を下見で歩かせてしまったことに申し訳なくも思ったが)。

その数年後、K先生が癌で亡くなったという話が伝わってきた。残念ながら、お墓参りにも行けていない。


K先生と比べるわけではないが、このパスポート事件の先生は、これからどう対処するのであろうか、とふと考えたりもした。

2012/02/22

There is something to do before the measure is taken.

先ほど連投ツイートしたもののまとめ。


1.「橋下大阪市長が小中学生の留年を検討するよう市教委に要請」というニュースを読んだ。確かに子どもの理解度はまちまちだが、それ以前にカリキュラムの内容に問題がないのか、また、留年以外の方法でカバーすることは検討できないのか。逆に、優秀な生徒は飛び級できるのか。

2.学習障害をもつ子どもや、普通学級に通う軽度の知的障害を抱える子どもにも同じ基準を適用するのか。むしろ、カリキュラムをどこからでもやり直せるような仕組みづくりの方が先決ではないか。仮に留年という制度を導入した場合、留年させたくないという配慮が働いて、逆に学習内容が平易になるのではないか。

3.橋下市長の主張はわからなくはない。学力低下に対処する一つの方法だ。だが、学力の乏しい子どもの中には、就学前からの生活習慣の中に「学び」が導入されていない場合が多い。幼いころから本に親しんだりものを考える習慣が身についていないしわ寄せが学校現場にすべて押し付けられることになる。

4.また、これほどまでに価値が多様化した社会の中で、「学校の勉強」というきわめて狭い枠組みの物差しだけで子どもの能力を判断すべきなのか。あまりにも「学校」に対して狭隘なものの見方をしてはいないか。学校は万能の特効薬ではないし、残念ながら、すべての教師が有能だとは限らない。

5.鞭だけでは子どもは動かない。「留年」という鞭を見せて「理解できるまで何度でもやれ」と言う前に、理解させる方法を工夫して、子どもが学びやすくさせることの方がはるかに重要だ。学校現場では、まだまだそうした工夫が足りていないのではないか。

6.とても残酷な現実だが、勉強も運動と同じで身体能力である以上、人により能力は異なるし、限界もあることをきちんと意識しなければならない。「理解できるまで留年させて教える」というのは「100mを9秒台で走れるまで留年させる」と言うのに等しいのだ。

7.高校や大学で「留年」が認められるのは、「嫌ならば辞めればいい」という選択肢が残されているからだ。義務教育という逃げ場のない場所に制度として留年を導入した場合、学校の学びに合わない子どもたちはどこに逃げればよいのか。

8.学力低下は、急務として取り組むべき課題だ。だが、留年は対症療法に過ぎず、根治には至らない。日本社会の土壌として、「成績不振」による小中学生での留年が一般的でない以上、該当する子どもに惨めな思いをさせるだけだ。

9.日本には昔から「夜間中学」というシステムがある。戦争や貧困などで小学校や中学校に通えなかったり、卒業しても勉強が身についていない人々が再チャレンジする場だ。「留年」を持ち出す前に、こうした補習の場を充実させることを視野に入れるべきではないだろうか。

10.大学でも「リメディアル教育」への取り組みが盛んに行われている。だとしたら、小学校や中学校向けの「リメディアル教育」を充実させることこそが、真に学力低下からの脱却につながるのではないか。

2012/01/17

A fundamental problem of the Center Exam...

本当は、Twitterで書こうかと思っていたが、いざ書き始めるとかなり長くなってしまったので、ここにまとめて掲載することにした。そのため、1~11まではTwitterの文字数に合わせた短いものだが、それ以降は文字数を無視して書いた。かなり辛辣なことを書いたと思うし、ぼくは現行の入試制度のもとでメシを食っているのだから、こんな批判をすべき立場ではない、とわかってはいるけれど、言うべきことはきちんと言わねばならない、と思う。

ぼくの主張は、いたってシンプルで、

(1) センター試験を廃止し、大学は、責任を持って一次も二次も独自の学力試験を作成すべき。
(2) 大学は、学習指導要領の枠組みにとらわれることなく、それぞれの大学が理想とする教育方針を掲げ、それに見合った入試を作成すべき。

というものである。

だが、いろいろ調べてみると、(1)や(2)を実現するためには、相当に大きな障壁が待ち構えている、ということに気が付いた。感情的に「センターなんて廃止してしまえ!」というのは簡単だけれど、問題は、センター試験そのものではなく、日本の社会が抱えている「官僚主導主義と天下りの容認」という、実に根深いものだったのだ。

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1.センター試験の前身・共通一次導入は1979年。当時は全ての大学にマークリーダーがあるはずもなく、共通一次でふるいにかける作業を行うことはやむを得なかったかもしれないし、基礎=共通一次、応用・思考力・発想=二次試験、という棲み分けが(タテマエとして)存在した。

2.共通一次導入前は、各国公立大学が独自に一次・二次の両試験を作成、採点していた。一次試験には記号選択式問題もあったが、マーク式ではなく、採点は全て手作業で労力がかかるし、当然、採点ミスもあったはずだから、採点ミスを減らす点でも共通一次には意義があったと言える。

3.センター試験になってから、そうした大義名分は全て消えた。マークリーダーはある程度金を出せば買えるし、私大や短大が参入した結果、問題の難易度も多様化させる必要が生じ、かつ、科目の組み合わせも多様化した結果、センター試験は結局「合否付きのマーク模試」になった。

4.そもそも入試問題とは、各大学が責任を持って受験生を選別し、大学の主張を受験生に伝えるメディアである。設問を通じて受験生はその大学が要求する知的水準を把握し、それに向けて勉強する。だから、一次試験といえども各大学が責任を持って作成するのが筋である。

5.入試を二段階に分ける必然性はないし、センター試験を課す必要性もない。一本化し、その中に基礎問題と応用問題を両方入れれば良いだけのこと。ただし、一つの大学を複数回受験する機会を与えたり、日程をズラして、受験生に選択の余地を与える配慮が必要だ。

6.にもかかわらずセンター試験を存続しようとするのであれば、文科省の天下り先の確保だと批判されても止むを得ない。センター試験という一本の物差しで学力を測ることに意味がなくはないが、その物差しが既に意味をなさなくなりつつある。

7.まして、年に一度しか実施しない試験でこれだけの設問ミスが発生しているのだから、その物差しじたいの信憑性も怪しくなる。英語の場合、1問1問はよく練られているが、いったいこれで受験生の何が測れるのか、疑問に思うような問題もある。

8.確かに、入試問題を作るには莫大な労力が必要だし、出題ミスのリスクもあるから、大学側が問題を作りたがらなくなるのも理解はできる。センター試験を課しておけば、とりあえずリスクは軽減されるし、手間も省ける。中には「自分の所で作るより良い問題だ」と言う教員もいるだろう。

9.大学の教員にとって入試問題作成業務は「余計な雑務」であり、教員はあまりやりたがらない、と聞いたことがある。だから、大学によっては予備校に入試問題を外注することもあったようだが、外注の場合、大学の要望は反映されるであろうが、センター試験はそうではないはずだ。

10.だとしたら、大学がセンター試験を利用するのは、単に「手抜き」としか言い様がない。まして、大学の意向が反映されていないセンター試験でその大学に入学する学生のどんな資質を測れるのか。それとも、センター試験を利用する大学はセンターに予め意向を伝えているのか。

11.既にセンター試験の存在意義は無きに等しいのに、なぜ国公立大学はセンター試験を使い続けるのか。いくつか理由は考えられる。一つは、前述したように、入試作問にかかわるリスクとコストを削減するためだ。

12.次に推測されるのが、文科省の天下り先である大学入試センターの意向に背くことにより、文科省からの運営費交付金等の援助を打ち切られるのではないかという恐怖心ではないだろうか。

13.国立大学は、名目上は「独立」行政法人である。とはいえ、国立大学も文科省の出向先や天下り先となっているため、実質的には文科省からの行政指導が強化されているに等しく、仮にセンター試験を利用しない等と言い出せば何らかの制裁が加えられる虞がある。

14.これは、私立大学も同じことだ。全てというわけではないが、一部の私大は文科省をはじめとする国家公務員の天下り先となっている( http://www.mynewsjapan.com/reports/1140 )。仮にこれを受け入れなければ、文科省からの助成金が削減される可能性もある。

15.つまり、センター試験という無意味な試験を平然と存続しているのは、文科省をはじめとする官僚が自らの天下り先を確保し、そこに金が流れ込む仕組みを維持するためであり、それに各大学が加担しているのだ。その点、今年からセンター試験利用をやめた慶應義塾大学は、まだ立派だと思う。

16.センター試験の背後にあるからくりを見つめると、日本の社会に強く根ざしている官僚支配の構造が見事に浮かび上がる。文科省(を含む官僚)がみずからに都合の良い絵を描き、大学がそれに追従している様子がうかがえるのだ。

17.だから、センター試験を廃止し、大学入試センターを解体することなど、誰も言い出しはしない。少なくとも、大学からは言えないであろうし、民主党が一時期馬鹿みたいに騒いでいた「事業仕訳」も所詮は人気取りのパフォーマンスであって、結局、大学入試センターのあり方にメスを入れることすらできなかった。

18.根本的な問題は、日本の教育制度は、実は、明治政府樹立以降からずっと、国家のために奉仕する「愚民」を育成するために存在しているということだ(ちなみに、明治時代から日本の教育カリキュラムの内容はほとんど変わっていない。『学制百年史』を見れば、明治時代の時間割と今の時間割にはほとんど差がないことがわかる*1)。だから、国としては国民に余計な知恵をつけてほしくはない。国民が本当に賢くなられて困るのは、ほかならぬ教育を支配する側なのだから。

19.そこで、「学習指導要領」などという決まった枠組みを押し付け、養鶏場でブロイラーを育てるかの如く、統一した企画内の「国民(愚民)」を生産する。大学も、自由な学問の府であると標榜してはいるものの、結局はその養鶏場の一部に過ぎず、大学入試センター試験は立派なブロイラーであることを検査するための検査場に他ならないのだ。

*1 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_059.html にある「明治19年の尋常中学校の学科目別週間教授時数」を見ると、科目は「倫理・国語及び漢文・第一外国語・第二外国語もしくは農業・地理・歴史・数学・博物・物理・化学・習字・図面・唱歌・体操」となっている。明治27年には第二外国語と農業が削除された。その後、明治34年には「修身、国語および漢文、外国語、歴史、地理、数学、博物、物理及化学、法制および経済、図画、唱歌、体操とした。外国語は英語、独語または仏語とし、法制および経済、唱歌は当分これを欠くことができるとした」とあり、現在の時間割の枠組みとほぼ変わらないものとなっている。

2011/06/12

As a gatekeeper.

As a gatekeeper.
昨夜、Twitterで、日本史講師の塚原哲也さん(http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/)と、入試問題の在り方について少しお話しした。


塚原さんは、

「高校までの中等教育と大学での教育とが「隔絶」していてよいし,それが現実だと思うけれども,「断絶」していては問題だろう。もし「断絶」しているとすれば,「大学への招待状」かつ「大学からの挑戦状」と位置づけられる入試問題は,果たして大学教員に出題可能なのだろうか。」

「大学に入学したあと,高校で覚えた用語をすべて忘れてしまってもかまわない。でも,それでも残るモノ,それを養うのが大学入試問題を素材とする受験勉強であってほしいし,大学教員の方々には,そういう入試問題を作成することを期待したい。」

と書いておられたが、正に仰る通りだと思う。


残念ながら、現状は「挑戦状」どころか「招待状」ですらないものが大半ではなかろうか。

これには幾つかの原因が考えられる。

第一に、いわゆる「全入時代」の到来や学力低下のために、大学が難問を出しにくくなったこと。

第二に、入試問題が文部科学省認定の教科書の範囲内から出題せざるを得ないため、その範囲を逸脱するような内容を出しにくいこと。

第三に、入試問題を作成するのに要する手間とリスクを考えた場合、あまり冒険は出来ず、結局、高校の教科書をなぞるような「無難な」問題を作らざるを得ないこと、などである。


第一の理由については、以前から指摘されている学力低下と少子化の問題が大きく関連しているが、要するに、大学も企業である以上、「客」である学生が集まらなければ経営が成り立たず、あまり難しい問題を出すと「客」が寄りつかなくなる、という経営上の判断が影響しているのではないかと考えられる。

また、下手に難問を出して得点が極端に低くなった場合、得点調整でもしない限り、合格者の平均点や最低点が低すぎて公表できないという可能性もある。


第二の理由については、高校で教えていない内容を出題すると、高校や文科省からクレームが来る可能性があるから、とも言える。ひょっとしたら、文科省からの助成金が打ち切られる可能性まで危惧しているかもしれない。


第三の理由は、大学の教員にとって入試の作問はあくまでも大学から命じられた(余計な)業務の一つに過ぎないということだ。教員の研究室の本棚の片隅には、高校の教科書が複数置かれていることがあるが、入試の作問委員に選ばれれば、本来の業務である(好きな)研究の時間を削ってこれらの教科書全てに目を通し、教科書の範囲を把握した上で問題と解答を作らねばならない。

だが、仮に1問でも出題ミスがあれば、大学に大きな損害を与えかねない。そのリスクを引き受けるのに見合う報酬が出されているわけでもないのに。

しかも、入試日程の多様化に伴い、入試問題を複数本作成しなくてはならないし、複数の入試問題の難易度や形式を揃えねばならない。

そうなると、高校の教科書に毛が生えたような問題や、他大学の入試問題を多少焼き直して使うことでお茶を濁さざるを得ない。


つまりは、〈経営サイドからのプレッシャー〉〈高校や文科省からのプレッシャー〉〈リスク回避のプレッシャー〉の中で、大学教員は入試問題を作らざるを得ないのだ。


だが、仮にこれらのプレッシャーを無視して、大学教育につながるような、大学からのメッセージと言える問題を作れるとしたら、果たしてうまくいくであろうか。

ここで問題となるのは、大学の教育方針が、決して全ての教員のコンセンサスを得られたものとは言いきれないということである。

つまり、教員によって〈理想とする大学教育〉がバラバラであり、大学が受験生に伝えたいメッセージも教員によってまちまちである、ということだ。

もちろん、学部・学科に関係なく、何らかの最大公約数的な共通項はあるはずだ。そうした共通項を見つける調整を行うのが教養課程の仕事であるべきなのだが、教養課程が形骸化したいま、そうした共通項を見出すことは難しいし、それを入試問題に反映させることも困難である。


だが、入試問題は、大学が受験生にその教育方針を伝えるための最高のメディアであるとぼくは考えている。どんなに綺麗で豪華なパンフレットよりも、受験生は過去問題を見て費やす時間の方が長いはずだ。

だからこそ、大学は責任を持って、入試問題の中に自らの主張をあらわさねばならないと思う。

それに応じて高校の教員もその大学入試への指導方法を工夫することになるであろうし、方針がしっかりしていれば受験生も対策が立てやすい。


ぼくは仕事柄、入試問題の分析と批評をすることが多いが、そのときに問題となるのが「良問」とは何か、ということである。

実は「良問/悪問」については、コンセンサスがないと言わざるを得ない。確固たるモノサシがないのだ。「では、モノサシを作れば良い」と思う人もいるであろうが、これはもう不可能だとしか言いようがない。

難問・奇問が悪問とは限らないし、同じ問題でも出題する大学によっては良問にも悪問にもなりうる。

以前、「センター試験では正答率の高い問題を再利用すべきだ。正答率が高いのは良問だからだ」という頓珍漢な発言がなされたのを聞いたことがある。

それならば英語の試験は全て、中学1年生のレベルにすれば良い。そうすれば正答率はグンと跳ね上がる(笑)。だが、それは「良問」とは言い難いはずだ。

では、ぼく自身が考える「良問」とは何か。

それは単純で、

「出題者(大学)が大学の教育方針を反映させた問題」

である。

だから、例えば、国語の問題で全ての問題を漢字の書き取りにしたって構わない。それがその大学の教育方針であり、そこで学ぶのに不可欠な知識を反映させたものであるならば(もっとも、そんな問題は現実として作り得ないであろうし、本当に存在していたらその大学の教育方針が疑われるであろうが)。

つまりは、先に述べた教養課程の充実にきちんと取り組み、大学が学生に要求する最大公約数的な知識・思考力について徹底的に話し合った上で、それを入試に反映させるべきなのだ。

教養課程は、パソコンにたとえればOSであり、専門課程はソフトウェアにあたる。いくらソフトウェアがあってもOSがなければソフトは動かない。

僕は以前、受験英語はリベラルアーツ(教養教育)だ、と言ったが、これは英語に限った話ではない。全ての入試科目がリベラルアーツであるし、大学入試である以上、そうあるべきなのだ。


ところで、塚原先生の仰る「挑戦状」についてふと思いついたことがある。

たとえば、大学の教員が総力をあげて作成した(超)難問を事前に公表し、「これが解けたら特待生。学費全額免除、下宿題支給」という、文字通り「挑戦状」を叩きつけてみてはどうだろうか。

全ての受験生に課す必要はなく、あくまでもきわめて優秀な特待生を獲得するためであるから、別に問題はないはずだ。

数学の高度な証明問題を英語で出題し、解答を期日までに提出したらそれについての口頭試問を英語で行う。

それを新聞の一面広告に掲載すれば話題作りにもなる。


理想の入試問題はそうなかなか実現できるものではないが、少なくともぼくたち受験産業に携わる者は、いわば「門番」として入試問題の質の向上のために、目を光らせなければならないと思う。

2008/11/16

岡山中学校講演風景

10月30日に岡山中学校で行った講演会の模様が学校のホームページにアップされていました。

直リンクはこちら

http://www.okayama-h.ed.jp/2008_chu3%20shinro-koen.html


何と言うか…

実にこの…

我ながら…

ガラの悪い(苦笑)。

いやいや、今年から「極道英語」で行くと決めたわけで(笑)。

もうしばらくはこの路線で…(汗)。

2008/01/16

問題は別のところにあると思う。

同業者だからこそあえて問いたい。

そもそも、なぜSAPIXなのか?業者選定の経過があまりにも不透明だと思うが、なぜメディアもそれを問題にしないのか?それが不思議でたまらない。

公教育があくまでも「公」を謳うのであれば、入札を行い、複数の民間企業から候補を募って、その中で最も条件が良いところを受け入れる、というかたちをとるべきではないのだろうか。これが私立中学ならばなんら問題はないが、血税を使う区立中学だからこそ、そうした部分に敏感になるべきではないか。たとえ、塾に対して学費を払う、と言っても、教室を利用するための光熱費などは税金でまかなわれているのだから。

「夜スペシャル」と名づけられたこの試み自体を否定するつもりはないし、公教育の再生を賭けて様々な試みがなされるのは良いことだと思う。

ただ、なぜその業者にしたのか、その経過をきちんと説明しなければ、せっかくの試みも疑わしい部分を残してしまうことになる。SAPIX側は、「知名度が上がるから」とニュースで話していたが、逆にこうした不透明な手順で決定されたことでマイナスの印象を与えかねないとも思うのだが…。

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東京・和田中の夜間授業:「公教育を破壊」危惧 都教委、杉並区教委に質問
 ◇「教員より講師信頼」

 東京都杉並区立和田中(藤原和博校長)で実施予定の夜間授業「夜スペシャル」をめぐり、都教委が容認姿勢を示した後、追加で「生徒が学校の教員より塾講師を信頼するようになったら、公教育が破壊されるのでは」などと区教委に質問していたことが分かった。都教委が自ら採用した教員の質を危惧(きぐ)しているともとられかねず、区側関係者は「不適切だ」と反発している。

 追加質問はこのほか、▽塾の講師と生徒の関係は、メール交換など私的な関係に発展しないよう注意する必要がある。誰が管理、監督するのか▽塾の講師は教員免許が不要で、経歴がわからない。誰が確認するのか--などで、週末に区教委に送られてきた。

 回答期限は求めていないが、区教委は7日の質問と同様、23日までに回答する方針で、「公教育を破壊する」などとする問いには、「教員が自らの立場にふさわしい対応をとれば、教員の信頼を失うことや公教育の破壊にはつながらない」と反論する。

 また、塾講師や生徒の管理、監督については、地元住民らボランティアで構成された「和田中地域本部」の下に保護者を交えた「夜スペ実行委員会」を作り、同委員会で実施するとしている。

 都教委は7日、「義務教育の機会均等の観点から疑義がある」など3点を挙げて「夜スペシャル」を再考するよう指導。都教委は9日に「課題が解決すれば問題はない」とし、容認姿勢を示した。和田中は26日から授業を始める予定だ。【三木幸治】

毎日新聞 2008年1月16日 東京夕刊
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080116dde041040059000c.html

2006/12/25

アンケートのお願い

「咆哮」で記した、野依氏の発言について、以下のようなアンケートを作成しましたので、是非ご投票ください。忌憚の無い意見をお聞かせいただければ幸いです。

http://www.d-pad.co.jp/enquete/make/index.cgi?enq_name=7057


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咆哮

私は無知蒙昧な人間であるから、「有識者」という言葉の意味がよく分からなかったのだが、どうやら「有識者」とは、「高学歴で世界的な賞をいくつも受賞しているが、その割には偏見と予断に満ちた傲慢で非現実的な発言しか出来ず、冷笑と反感を買う人」という意味だったのだろうか。

2006年12月8日の「第3回 規範意識・家族・地域教育再生分科会」(第2分科会)において、「有識者」の一人として出席した座長の野依良治氏が「学習塾は出来ない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだと思う」と発言した。これはYahoo!ニュースにも掲載された。

以下、その発言をそのまま引用する(出典は、http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/2bunka/dai3/3gijiyoushi.pdf)。

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(野依委員)
 塾をやめさせて、放課後子供プランをやらせないといけない。塾は出来ない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだと思う。

(野依委員)
 公教育を再生させる代わりに塾禁止とする。それくらいのメッセージを出していいのではないか。昔できていたことが何故今できないのか。我々は塾に行かずにやってきた。大学も誰でも入れるようになっている。難しくない。塾の商業政策に乗っているのではないか。
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野依氏は、2001年にノーベル化学賞を受賞した。他にも有名な賞を数々受賞しており、文化功労者にも選ばれている(詳しくはこちらを参照)。その割には、この一連の発言は稚拙な思い付きとしか言えず、予断と偏見に満ちた老人の戯言としか思えない。いったい、この人は、教育現場の現実の何を知っていると言うのだろうか。以下、上記の発言への疑問及び私見を並べてみたい。

(1) 「放課後子どもプラン」なるものが、現状として果たしてどのくらい実現できているのか。岡山県在住の私の知人が、息子さんの放課後の居場所に困って文部科学省に問い合わせたところ、「東京でもまだ始まったばかりですから、地方ではまだまだですね」と言われたそうだ。日本中に浸透するまであと一世紀ぐらいかかるのか?そんな曖昧なプランを基にして、「塾禁止」とは片腹痛い。野依氏は「放課後子どもプラン」を主張しておられるが、その中身について全くご存じないとしか言いようが無い。これで「座長」とは笑止千万である。

(2) 「塾は出来ない子が行く」場所だそうである。だとすれば、「出来る子」に関しては、全ての公教育において、「もっともっと出来る子」にできるような素晴らしい施策をお考えなのであろう。是非、野依氏のお力で、全国の学校を、野依氏の出身校である灘高校並の優れた高校にしていただきたいものだ。

(3) 「普通以上の子供」とは何を基準にしているのか。野依氏はノーベル化学賞を受賞したぐらいであるから、きっと何か私のような凡人には計り知れないような厳密な計算方式をお考えなのだろう。是非、その基準を、私のような凡人にも理解できるようにご教授願いたいものだ。

(4) 「塾禁止」ということは、塾を開きたくても、あるいは塾講師になりたくても、その機会が制限されてしまうことになるのであるから、日本国憲法第22条で保障された「職業選択の自由」を制限することになるのではないか。(参考:日本国憲法第22条「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」)あるいは、「学習塾の経営は、公共の福祉に反するから職業選択の自由を制限しても良い」とお考えなのだろうか。そもそも、「ノーベル化学賞」などという私のような凡人には到底無縁の賞を受賞された方が「塾は禁止にすべきだ」とご発言されたことについて、そのご発言の与えた社会的影響の大きさをご理解なさっておられるのであろうか。「あんなに優れた偉い人が『塾禁止』と仰るのだから、塾は悪いものに違いない」と思う人々が出てきてもおかしくはないと思うのだが、そうなった時に野依氏はどう責任を取っていただけるのか?

(5) 「昔できていたことが何故今できないのか」と言う場合の「昔」とは、いつの時代のことか(因みに、日本の公教育は明治政府樹立以後のことであり、それ以前の子どもの教育は「寺子屋」が主流であった。つまり、私塾のほうが遥かに歴史が古いのである)。「我々は塾に行かずにやってきた」という発言から判断すると、野依氏の仰る「昔」とは、氏の学生時代である1950年~1955年頃のことであるのかもしれないが、そのころは現在ほど塾も無く、また、大学や高校への進学率も今日ほど高くはなかった。「金の卵」という言葉があったが、この頃は中卒で集団就職するのが当たり前の時代であった(『三丁目の夕日』の時代である)。さらに、野依氏は名門・灘高校から京都大学に進学されたほどの知性の持ち主である。つまり、「塾に行かずにやってきた」のではなく、たまたま野依氏が「塾に行く必要が無かった」だけであり、その私的かつ懐古的な見解のみに基づいて塾を批判しておられるのである。私は、年長者に対する礼を失するつもりは無い。しかしながら、「昔は良かったから、昔に戻せ」と無闇に言い張るのは、頑迷な老人の戯言としか思えず、変化や進歩を一切否定しているようにしか思えない。守るべきものは守らねばならない。良き伝統もある。しかし、それだけにしがみついて、世の中の変化に一切背を向けるのは柔軟性に欠けているとしか思えない。

(6) 「大学も誰でも入れるようになっている。難しくない。」とあるが、これについては、「全体として以前よりは入りやすくなっているようだが、二極分化が進んでおり、入りやすい大学もあれば相変わらず入りにくい大学もある」というのが現実ではないのか。もっとも、野依氏の頭脳を以ってすればいかなる大学も難しくは無いのだろうが。

(7) 「塾の商業政策に乗っているのではないか。」とあるが、仰る通り、塾は営利企業である。そのお陰で私も辛うじて日々の糧を得させて頂いている。では、私立学校は営利企業ではないのか。既に、株式会社による学校も存在している。国立大学は独立法人であり、事実上、私立大学と同列である。日本の教育の方向性を左右するような重大な会議の座長を務め、ノーベル賞を受賞されている方であるのだから、まさかそんなこともご存じないはずは無かろう。

全ての公教育が、「全ての」学生・生徒にとって本当に満足のいくかたちになった時、塾はその役目を終えるのかもしれない。しかしながら、そうした理想だけに囚われて、
「塾が悪い」「塾はいらない」「塾をなくせば良い」といった発想を、きわめて影響力のある人物が公の場で行うことがどれほど愚かなことか。

私は、今年の8月末に岡山県津山市にある中学校で先生方を前にお話をさせていただいた。その場で私は、「学校・塾・地域が一体となって、子どもを育てねばならない」と発言した。

公教育と塾が対立する、という図式は過去のものである。本当に子どものことを考えるのであれば、お互いの利点を生かし、協力し合うべきだと思うが、野依氏のような立派な方は、私のような凡人の考えに首肯しては下さらないであろう。

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