« A festival! (o^−^o) | トップページ | It's no use... »

2013/01/11

You can't beat it...

大阪市立桜宮高校の体罰事件が波紋を呼んでいる。

もちろん、これまでにもこうした事件は時折報じられている。以下、Wikipediaの「体罰」( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E7%BD%B0 )の項目から抜粋。

==========
・戸塚ヨットスクール
不登校や家庭内暴力といった問題行動のある児童を、スパルタ式教育により、生理機能を増進させ、健康で逞しく育てるとした私塾であったが、指導の方法は論理的根拠に欠ける部分があり、中には心理的な傷を負ったり、指導内容の問題もあって、暴力や遭難による死亡者・行方不明者まで出た(戸塚ヨットスクール事件)。このため戸塚宏校長らが逮捕・起訴され、有罪判決を受け服役したが、戸塚校長は出所後の記者会見でも「体罰は教育」と発言した。但し、現在では暴力的な指導はあまり行われていないといわれる。

・水戸市立第五中学校(1976年5月)
体育授業における体力測定中、担当教員が手伝い係の生徒が「なんだ加藤か」と担当教員を呼び捨てにした発言に対し担当教員が生徒の頭部を激しく殴打し、生徒が1週間後に死亡した事件。加害教員は一審で有罪となるも、二審では生徒が風疹にかかっていたと説明し、無罪判決を受けた。学校側は被害生徒側に体罰の事実を告知せず、また生徒たちに被害生徒の通夜への参列を禁止するなど、不誠実な対応も問題になった。遺族が体罰の事実を知るのは荼毘に付した後で、級友から知らされて初めて体罰の事実を知った。学校は遺族に「土葬か火葬か」と意味深な発言もしていた。

・岐阜県立中津商業高等学校(1985年3月)
陸上部顧問の教員が女子部員に執拗な体罰と言葉の暴力を加え、自殺に至らしめた事件。被害生徒は国体などへの出場経験を持つやり投の選手だったが、顧問教員から半年にわたり、成績不振やその他の些細な理由で執拗かつ激烈な体罰を受け続け、さらに進級のための追試験に合格したにもかかわらず県の強化合宿メンバーから外され、体育教官室で顧問ら2人の教員から長時間立たされたまま、言葉の暴力を加えられ、翌日未明に自宅で自殺した。当時同校では、この顧問教員を中心とした体育科教員による「もう1つの生徒指導部」と呼ばれる生徒指導体制が確立されていた(一種の恐怖政治)。

被害生徒の自殺後、顧問教員は「あの子は叩きよかった、殴りよかった」と話し、また焼香に訪れた際にも遺族に対し「バカとしか言えん」「死人にクチなし」などと半ば逆ギレとも思える暴言を浴びせた。遺族が県と加害教員を相手取り提訴し、県に対する請求は認められたが、加害教員への請求は認められなかった。

・岐阜県立岐陽高等学校(現・岐阜県立本巣松陽高等学校)(1985年5月)
修学旅行で国際科学技術博覧会を訪れた際、宿泊先である近隣の臨時宿泊施設で、持参が禁じられていたヘアドライヤーを使用した生徒に学級担任の教員が激しい体罰を加え、死亡させた事件。傷害致死罪で逮捕され実刑判決を受けた(事件後に懲戒免職)加害教員は転任したばかりで、普段体罰を振るう教員ではなかったが、生徒指導担当の教員から前任校での指導方針を詰られたことが、暴行とも見紛う激烈な体罰の引き金になったとされる。また、当校はゼロ・トレランス方式による生活指導を行っていた。校長は、「これは教諭の弱さだった」と発言。

岐阜県の教育委員会は、「信じられない特異なケース」「教師個人の体質、資質の問題」「体罰は日常化していない」と断言。しかし、後のアンケートの結果生徒の半数が体罰を受けているという結果も出た。判決後の記者会見で校長は、「学校側の管理上、教育上の責任が全くゼロとは感じていないが、教育現場では、教師の個々の生徒に対する力量が最後に出てくる」と発言。

・小松市立芦城中学校(1986年7月)
遅刻や忘れ物の多い生徒に対し、学級担任の教員が4回の往復びんたの後に柔道技を数回かけて転倒させ、3日後に死亡させた事件。加害教員は「明日も忘れ物をしたら本当に怒る」と被害生徒に伝えていたが、被害生徒は母親が病気入院中で、家事や弟の面倒も見ていたために遅刻が多くなり、「忘れ物」も家計が苦しいためそもそも持っていなかったという。さらに被害生徒は解剖の結果、動静脈に先天的な異常があることも判明した。加害教員は執行猶予付き判決を受けた。

・川崎市立桜本小学校(1987年1月)
特殊学級の担任教師が指示に従わない児童の頭部を殴打し、死亡させた事件。生後6ヶ月の時に頭骨の手術を受けた被害児童は入学する際、絶対に頭を叩かないよう両親が学校側に申し入れていた。日常的に体罰を振るっていた加害教員は1988年11月26日に最高裁で懲役2年の実刑判決を受けた。

・近畿大学附属女子高等学校(現・近畿大学附属福岡高等学校)(1995年7月)
学級副担任の教員が、指示に従わなかった生徒に激しい体罰を加え、死亡させた事件。加害教員は自らの公判で体罰を伴う指導方針を正当化したほか、学校内外で体罰を容認・正当化する風潮があり、被害生徒の遺族への嫌がらせもあった。加害教員は1、2審とも実刑判決を受けた[31]。また事件がメディアに流れていた頃、加害者の男性教師に世話になったOGなどは、刑を軽くするために学校近隣で署名を集めていた。また被害者の両親に、匿名で家に寿司10人前やカラオケセットが送りこまれ、代金を払わせようとする悪戯も行われていた。

・おかやま山陽高等学校(2005年)
元野球部監督の男性職員(35歳)が、部員に体罰を繰り返していたことや「メンタルトレーニング」と称して全裸でのランニングを強要していたことが発覚。保護者からの告訴により11月に強要罪・暴行罪で逮捕・起訴された。この性犯罪じみた体罰については、体罰肯定派が多い保守的な立場の論客からも、「性的な体罰は性犯罪者を生み出すだけだ」と強く非難されたため、どのような判決が出るか注目された。男は容疑となった事実関係そのものについては認めているが、それらの行為は正当だったとして無罪を主張。2007年3月、執行猶予付き有罪判決。

・京丹後市の市立小学校(2007年)
28歳の男性教諭が自分の担任クラスで、ある児童の外見をからかう動きがあることに気付き、「次にからかったらみんなを叩いて自分は教師を辞める」と宣言。しかし再び同様のからかいが発生した為、この教諭は宣言通りクラスの児童の頬を一人一回ずつ平手打ちをした後、その足で校長室に向かって体罰を報告した(この際、クラスの児童は泣きながらこの教諭を引き留めた)。校長は教諭を3日間の謹慎処分とし保護者を集めて謝罪したが、教諭は反省文と辞表を提出した。その後、この小学校の保護者の間で辞表の撤回を求める署名活動が始まり、ほぼ全児童の保護者が署名に応じる事態となった。校長はこの教諭が二度と体罰をしないと約束した為、辞表を返却した。

・小学2年生への体罰訴訟(熊本県天草市)
2002年に臨時教員の男性が当時小学2年生の男児の胸を掴んで叱責した行為について。1、2審は体罰と認定し市に賠償を命じていたが最高裁(第3小法廷、近藤崇晴裁判長)は2009年4月28日「教員の行為は体罰に当たらない」と判断し、1、2審判決を破棄、原告の請求を棄却した。教員の行為が体罰に当たるかどうかが争そわれた民事訴訟として、最高裁が判断を示した初めての事例。

==========

ぼくが中学生の時、いまの世田谷区長・保坂展人さんが書いた『先生、涙をください! 学校からの緊急報告 保坂展人の元気印レポート』(集英社 1983年)という本をたまたま読んだ。校内暴力が激しかった時期についてのルポで、荒れる中学生の様子や教師による体罰について書かれていた(大胆なことに、夏休みの読書感想文はその本を使って書いた。別にじぶんの中学校が管理教育をしていたわけではないし、じぶんじしんも中学校には不満は持っていなかったが、きっと、何かしら感じるものがあったのだろうw)。

もちろん、そういう時代だったから、と言ってしまえばそれまでかもしれない。『3年B組金八先生』の第二シリーズで描かれた「腐ったミカンの方程式」( http://www.geocities.co.jp/SweetHome/4677/KP/KM.htm )に代表されるように、1980年前後は当時は校内暴力が横行していた。

だが、当時の学校は(いまでもそうかもしれないが)警察の介入を拒否し、教師だけで何とかしようとしていた。「腐ったミカンの方程式」で描かれる教師・坂本金八は、まさにその象徴である。だが、その反動として「鉄拳制裁」がエスカレートしたのも確かではないか。もちろん、教師の体罰はそれ以前から存在していたのだが。

Wikipedia( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%A1%E5%86%85%E6%9A%B4%E5%8A%9B )には以下のような記述があった。

==========
日本において校内暴力は、1970年代終盤から社会問題として注目されるようになり、暴力事件数にピークを迎えた。

1980年には、テレビドラマ『3年B組金八先生』第2編で校内暴力が主題として扱われた。また、東京都内では中学生による関東番長連合「憂誠会」(浅草総本部・中野、港、新宿、横浜、川口等に支部)などという組織が結成され、世間を驚かせた。

1985年頃を境に沈静したが、代わって学級崩壊やこれまでなかったタイプのいじめの急増など、新たな問題が見られるようになっている。ただし、沈静の裏側には、徹底的な管理教育による生徒への抑圧が行われており、校内暴力の嵐が吹き荒れていた時とは逆に、教師(主に体育会系出身者)による生徒への暴力が行われた背景もある(東京都教育委員会の調査結果によると、昭和60年度 教師による暴力での生徒の怪我が都内全体で43件発生。昭和55年度の調査では3件だった)。沈静の過程にかけては歴史的な研究も行われている。
==========

現代の価値観を使って過去を批判することにはあまり意味がない。いわば「後出しじゃんけん」のようなものだからである。だから、こうした過去の事例については、肯定こそできないが否定をするつもりもない。問題は、こうした過去の事件を受けて、これからどのようにすべきかを考えることだ。

まず、教師は、いつまでも「坂本金八的価値観(学校が外部に頼らずに学校内だけで問題を解決しようとする考え方)」を引きずっていてはいけない。この価値観は、学校が社会から乖離した特権的な組織であることを含意するためだ。その結果、教師もいち社会人としてのありかたを忘れ、生徒に対して高圧的に(時に暴力的に)ふるまうようになり、表ざたにできないようなことを校内で闇に葬る可能性がある。

だから、皮肉なことだが、「腐ったミカンの方程式」で描かれた「荒野二中」の対応(加藤優のような問題児を放り出し、あるいは、警察に委ねる)のほうが、はるかに現実的ではないか、と思ってさえしまうのだ。坂本金八ならばこれを「教育の敗北」だと言うであろう。だが、そもそも、教育機関が社会の現実から乖離した特権的な組織であるという思い上がりを捨てなければ、いつまでも敗北し続けるであろう。

« A festival! (o^−^o) | トップページ | It's no use... »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« A festival! (o^−^o) | トップページ | It's no use... »