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2011/06/04

Where is my intention?

行為の「意図」はどこにあるか?

行為者の「心」の中にあるのか?


いや、違う。心は誰にも見えないし、自分にすらわからない。たとえば、何気なくお茶を口に運んだとき、「私は、のどの渇きを潤す意図でこの行為を行っている」などとは考えない。

実際、あなたは今、どんな意図を持ってこの文章を読んでおられるのか?そう問われても、明確に「こういう意図で」とは答えられないはずだ。

ましてや、「意図」が論じられるのは、通常、行為が終わった後のことである。

「何故あのときお茶を口に運んだの?」と問われても、「私は、喉の渇きを潤す意図でその行為を行った」と答えるしかない。だが、その行為を行ったときにはそんなことを考えていなかったのであるから、それは本当の意図かどうかはわからない。そもそも、「本当の」意図なるものがあるかどうかすら疑わしい。


いわば、「意図」とは後付けの理屈(または屁理屈)に過ぎないのだ。だから、いくらでも「あのときはこういうつもりだった」と言うことができる。

その「意図」が、行為に参与している人々に「承認」されて初めて、「本当の」意図だと認められる。この場合の承認とは、必ずしも積極的に承認するという意味ではなく、誰も疑義を示さない、という消極的承認も含んでいる。

つまり、なにがしかの「意図」が成立するのは、心の中にではなく、他者からの承認という社会的相互行為の中に他ならないのだ。

さらに言えば、「意図」を持ち出すのは、過去の行為に対する非難とそれに対する応酬(正当化)という文脈が多い。

先ほど、「何故あのときお茶を口に運んだの?」という質問を例に挙げたが、このように相手の意図を問う行為そのものが、実は相手の行為に対する「未承認」ないしは「非難」を示すことになる。

逆に、「〜するつもりだった」という言い方も、自らの行為が非難されていることが前提となる。

言うなれば、「意図」とは後出しジャンケンのようなものだ。「グーを出して負けたが、本当はチョキを出すつもりだった」と言ったところで、それは「負け惜しみ」「言い訳」にしか聞こえない。


===引用開始===
千度以上示す核物質、3月12日に検出していた
(6/3 23:09 読売新聞)
東電福島第一原発から約6キロ離れた福島県浪江町で3月12日朝、核燃料が1000度以上の高温になったことを示す放射性物質が検出されていたことが分かった。

(中略)

事故発生から2か月以上たっての公表で、保安院の西山英彦審議官は「隠す意図はなかったが、国民に示すという発想がなかった。反省したい」と釈明した。
===引用終了===

「隠す意図はなかったが」と言われても、それは結局、後付けの理屈にすぎない。そもそも「意図」とは本来そうした性質を持つものなのだから、今更「意図」を主張されても、確たる証拠もなければ、説得力もない。

仮に、「本当のことを言えばパニックが起こる」と思っていたとしたら、それは「日本国民は冷静な行動がとれない」という彼等の不信感のあらわれにほかならない。つまり、国民が彼らに「冷静な判断の取れない愚民」扱いされているようなものだ。

まして、政府や保安院や東電が今更何を言って繕おうとも、その発言が正しい保証はどこにもないし、それを鵜呑みにはできないということを僕らはわかっている。

後出しジャンケンとその言い訳に終始している政府・東電・保安院は、もう誰からも信頼されない。

あとはただ、言い訳をせず、これまで(そして今)隠しているデータを全て公表すべきだ。だが、仮に彼らが「全て」を出したとしても、ここまで猜疑心が高まっている以上、誰一人、それが「全て」だとは思わないであろう。

そもそも、「意図」が承認されるには、「信頼」が大前提となる。はなから信頼されていない人間が「意図」を持ち出しても、承認されはしないのだ。

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