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2011/06/12

As a gatekeeper.

As a gatekeeper.
昨夜、Twitterで、日本史講師の塚原哲也さん(http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/)と、入試問題の在り方について少しお話しした。


塚原さんは、

「高校までの中等教育と大学での教育とが「隔絶」していてよいし,それが現実だと思うけれども,「断絶」していては問題だろう。もし「断絶」しているとすれば,「大学への招待状」かつ「大学からの挑戦状」と位置づけられる入試問題は,果たして大学教員に出題可能なのだろうか。」

「大学に入学したあと,高校で覚えた用語をすべて忘れてしまってもかまわない。でも,それでも残るモノ,それを養うのが大学入試問題を素材とする受験勉強であってほしいし,大学教員の方々には,そういう入試問題を作成することを期待したい。」

と書いておられたが、正に仰る通りだと思う。


残念ながら、現状は「挑戦状」どころか「招待状」ですらないものが大半ではなかろうか。

これには幾つかの原因が考えられる。

第一に、いわゆる「全入時代」の到来や学力低下のために、大学が難問を出しにくくなったこと。

第二に、入試問題が文部科学省認定の教科書の範囲内から出題せざるを得ないため、その範囲を逸脱するような内容を出しにくいこと。

第三に、入試問題を作成するのに要する手間とリスクを考えた場合、あまり冒険は出来ず、結局、高校の教科書をなぞるような「無難な」問題を作らざるを得ないこと、などである。


第一の理由については、以前から指摘されている学力低下と少子化の問題が大きく関連しているが、要するに、大学も企業である以上、「客」である学生が集まらなければ経営が成り立たず、あまり難しい問題を出すと「客」が寄りつかなくなる、という経営上の判断が影響しているのではないかと考えられる。

また、下手に難問を出して得点が極端に低くなった場合、得点調整でもしない限り、合格者の平均点や最低点が低すぎて公表できないという可能性もある。


第二の理由については、高校で教えていない内容を出題すると、高校や文科省からクレームが来る可能性があるから、とも言える。ひょっとしたら、文科省からの助成金が打ち切られる可能性まで危惧しているかもしれない。


第三の理由は、大学の教員にとって入試の作問はあくまでも大学から命じられた(余計な)業務の一つに過ぎないということだ。教員の研究室の本棚の片隅には、高校の教科書が複数置かれていることがあるが、入試の作問委員に選ばれれば、本来の業務である(好きな)研究の時間を削ってこれらの教科書全てに目を通し、教科書の範囲を把握した上で問題と解答を作らねばならない。

だが、仮に1問でも出題ミスがあれば、大学に大きな損害を与えかねない。そのリスクを引き受けるのに見合う報酬が出されているわけでもないのに。

しかも、入試日程の多様化に伴い、入試問題を複数本作成しなくてはならないし、複数の入試問題の難易度や形式を揃えねばならない。

そうなると、高校の教科書に毛が生えたような問題や、他大学の入試問題を多少焼き直して使うことでお茶を濁さざるを得ない。


つまりは、〈経営サイドからのプレッシャー〉〈高校や文科省からのプレッシャー〉〈リスク回避のプレッシャー〉の中で、大学教員は入試問題を作らざるを得ないのだ。


だが、仮にこれらのプレッシャーを無視して、大学教育につながるような、大学からのメッセージと言える問題を作れるとしたら、果たしてうまくいくであろうか。

ここで問題となるのは、大学の教育方針が、決して全ての教員のコンセンサスを得られたものとは言いきれないということである。

つまり、教員によって〈理想とする大学教育〉がバラバラであり、大学が受験生に伝えたいメッセージも教員によってまちまちである、ということだ。

もちろん、学部・学科に関係なく、何らかの最大公約数的な共通項はあるはずだ。そうした共通項を見つける調整を行うのが教養課程の仕事であるべきなのだが、教養課程が形骸化したいま、そうした共通項を見出すことは難しいし、それを入試問題に反映させることも困難である。


だが、入試問題は、大学が受験生にその教育方針を伝えるための最高のメディアであるとぼくは考えている。どんなに綺麗で豪華なパンフレットよりも、受験生は過去問題を見て費やす時間の方が長いはずだ。

だからこそ、大学は責任を持って、入試問題の中に自らの主張をあらわさねばならないと思う。

それに応じて高校の教員もその大学入試への指導方法を工夫することになるであろうし、方針がしっかりしていれば受験生も対策が立てやすい。


ぼくは仕事柄、入試問題の分析と批評をすることが多いが、そのときに問題となるのが「良問」とは何か、ということである。

実は「良問/悪問」については、コンセンサスがないと言わざるを得ない。確固たるモノサシがないのだ。「では、モノサシを作れば良い」と思う人もいるであろうが、これはもう不可能だとしか言いようがない。

難問・奇問が悪問とは限らないし、同じ問題でも出題する大学によっては良問にも悪問にもなりうる。

以前、「センター試験では正答率の高い問題を再利用すべきだ。正答率が高いのは良問だからだ」という頓珍漢な発言がなされたのを聞いたことがある。

それならば英語の試験は全て、中学1年生のレベルにすれば良い。そうすれば正答率はグンと跳ね上がる(笑)。だが、それは「良問」とは言い難いはずだ。

では、ぼく自身が考える「良問」とは何か。

それは単純で、

「出題者(大学)が大学の教育方針を反映させた問題」

である。

だから、例えば、国語の問題で全ての問題を漢字の書き取りにしたって構わない。それがその大学の教育方針であり、そこで学ぶのに不可欠な知識を反映させたものであるならば(もっとも、そんな問題は現実として作り得ないであろうし、本当に存在していたらその大学の教育方針が疑われるであろうが)。

つまりは、先に述べた教養課程の充実にきちんと取り組み、大学が学生に要求する最大公約数的な知識・思考力について徹底的に話し合った上で、それを入試に反映させるべきなのだ。

教養課程は、パソコンにたとえればOSであり、専門課程はソフトウェアにあたる。いくらソフトウェアがあってもOSがなければソフトは動かない。

僕は以前、受験英語はリベラルアーツ(教養教育)だ、と言ったが、これは英語に限った話ではない。全ての入試科目がリベラルアーツであるし、大学入試である以上、そうあるべきなのだ。


ところで、塚原先生の仰る「挑戦状」についてふと思いついたことがある。

たとえば、大学の教員が総力をあげて作成した(超)難問を事前に公表し、「これが解けたら特待生。学費全額免除、下宿題支給」という、文字通り「挑戦状」を叩きつけてみてはどうだろうか。

全ての受験生に課す必要はなく、あくまでもきわめて優秀な特待生を獲得するためであるから、別に問題はないはずだ。

数学の高度な証明問題を英語で出題し、解答を期日までに提出したらそれについての口頭試問を英語で行う。

それを新聞の一面広告に掲載すれば話題作りにもなる。


理想の入試問題はそうなかなか実現できるものではないが、少なくともぼくたち受験産業に携わる者は、いわば「門番」として入試問題の質の向上のために、目を光らせなければならないと思う。

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コメント

う~ん
おっしゃるとおりです。

同じく高校版「電話帳」を
食い入るように見ています。

それを元に分析をしますが,
所詮,北海道(の公立高校入試)。
所謂,最低限で合格できます。

おいらは,模試の作成を
模試事務局から依頼され,
手がけていますが,
いつも「良問」とお褒めを頂いています。

自分の力作でも「良問」だし,
消化不良でも「良問」でした。
この辺は,作問者のネームバリューでも
「良問」になっている気がします。
大学入試だとなおさらでしょう。
(おいらはそうではないはずなんだけどね)

> saint / きんぐさん

お疲れ様です。
m(_ _)m

結局、問題の善し悪しってのは、その問題の「用途」に左右されますからねぇ。

万人をして「良問だ」といわしめる問題などあり得ないでしょうね。だから、模試にしても何にしても、「何のための試験か」を意識して作成することが大切なのだと思います。

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