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2007/08/16

無題

いま、祖母の眠る寝室にいます。今夜は、祖母が家で過ごす最後の夜です。

16日が通夜、17日が告別式ですが、授業の関係で通夜には参列できないため、今夜はできる限り、傍にいたいと思います。

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14日(火)

19:55に授業が終わった後、病院に向かう。大井町で下車し、弁当を購入して、病室で食べる。病室には母がいて、この夜は母が一晩付き添うことになっていた。この時点では、いつ、どうなるかわからなかったので、母と叔母が日替わりで病室に泊まる予定だった。

祖母は酸素吸入と点滴でしのいでいた。呼吸は1分間に6~10回程度と非常に少なく、かわりに心拍数が130前後であった。呼吸が少なくなった分、心臓が必死に血液を全身に送り込んで酸素を行き渡らせているかのようだった。

途中で、看護士が見回りに来る。瞳孔反射はある、とのこと。

23時半ごろ、病室をあとにして帰宅する。

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15日(水)

朝5時過ぎに、病院に泊り込んでいた母から電話があったようで、父に起こされた。

「心拍数が50を切ったそうだ。一度、心臓が止まったらしい。」

支度して、父の運転する車で病院に向かう。

病院に着いたのは5時半ごろ。既に叔母・叔父・従弟が来ていた。

「ついさっき、心臓が止まったよ。」

叔母が泣きながらそう告げた。

母に尋ねると、5時23分に心停止したままとのこと。

祖母の顔やおでこに触れる。まだ温かい。布団の中の手もとても温かくて、死んでしまったなんて思えなかった。

その後、担当医師と看護士が来て、死亡を確認した。

「5時50分、死亡を確認いたしました。」

死亡診断書にはこの時刻が記載されているが、母は親戚に「5時23分に亡くなりました」と連絡をしていた。祖母の誕生日は5月23日。5・23という数字に縁があったのかもしれない。

ある程度、覚悟はできていた。いつかこの日が来ることもわかっていた。だけど…。

僕が生まれてから36年と9ヶ月。共働きの父母にかわって、祖母は、僕を育ててくれた。

祖母は、限りなく優しかった。甘やかす、ということではなく。口やかましい部分もあったけれど、間違ったことは言ってなかった。

祖母は、感情的に怒ることはなかったけれど、一度だけ、僕が小学6年生のとき、家を建て直していて仮住まいのときに祖母と銭湯に行く途中で、僕が何かであまりに我侭を言ったものだから、祖母を泣かせて怒らせてしまった。そのことを、なぜか今でも覚えている。

祖母は、とても茶目っ気があって、とてもお洒落で、何より「ハイカラ」だった。

昔、祖母がバスの車掌をしていた写真を見せてもらったことがある。まだ祖母が20代の頃だと思うけれど、バスのステップのところで、とてもかわいらしくはにかんでいたモノクロの写真だった。きっと、遺品を整理したら出てくると思う。そうしたら、大切に保管しておこう。

祖父が巨人ファンだったからかどうかは知らないけれど、祖母は巨人ファンだった。「最近の選手はよくわからないねえ」とは言っていたけれど、僕よりもはるかに野球選手のことは知っていたし、最近のタレントのこともよく知っていた。

僕は、幼い頃、喘息を患っていたので、よく発作を起こしては大井町の病院に連れて行ってもらった。たぶん、僕が幼稚園、祖母が50代の頃のはずだが、祖母におぶってもらって連れて行ってもらった覚えがある。

「今度は、僕がおばあちゃんをおんぶする番だね。」

大人になってからは、よくそう言っていたけれど、残念ながら、一度もかなわなかった。

15日の朝、病院から自宅に連れ帰ったときに、おんぶこそできなかったけれど、従弟と一緒に祖母をベッドに横たえた。せめて、生きているうちにおんぶできればよかったのに。悔しくて、悔しくてたまらない。

死亡確認の後、病室で、処置をしてもらう。

お気に入りの水玉模様のドレスを着せてもらい、綺麗にお化粧してもらった。薄紅の唇。まるで生きているかのようだ。今にも、「あら、たまちゃん、おはよう」と言って起き上がってくれるのではないか、と思うばかりだ。

祖母は、体調を崩すまで、家事を全て切り盛りした。家の誰よりも家の中のことをよくわかっていて、まさに我が家の「心臓部」だった。

僕が仕事に出かけるときは、必ず玄関から出て、手を振って見送ってくれた。

去年から秀英予備校での仕事をしているおかげで、今年の6月いっぱいまでは、ほぼ毎週、祖母が見送ってくれたけれど、僕は「こうしておばあちゃんに見送ってもらえるのは、あと何回なんだろう…」と不安にも思い始めていた。

処置ののち、祖母の亡骸は霊安室に運ばれ、そこで葬儀屋の迎えを待つ。

午前8時過ぎ、葬儀屋の車で帰宅した。

父と母が家に先回りして祖母が自分の部屋に入れるように片づけをしてくれていた。

ようやく、おうちに戻れたね。おかえりなさい。

祖母の寝ているベッドは、もともと僕が使っていたものだった。年をとってから布団の上げ下げが辛くなったこともあり、腰掛けてそのまま横になれるちょうどいい高さだったので、いつからかそれを使うようになった。

普段は南向きに寝ているけれど、今日は北枕。おばあちゃん、いつもと向きが違ってごめんね。

部屋の中はほとんどそのまま手付かずで残っている。今は、その部屋の中で、こうして日記を綴っている。どこを見渡しても、祖母の温もりが伝わってくる。涙が止まらない。

昼過ぎに、藤沢に出かける。

火曜日の授業で、祖母の体調が悪いという話をした。生徒の何人かが心配して、「先生、大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。まさかその翌日に、祖母が亡くなったという話をすることになるとは思ってもいなかったけれど。

もちろん、全くの私事なのだから、授業でそのような話をする必要は無いのかもしれない。だけど、心配してくれている生徒さんもいたので、言わずにはおれなかった。ただ、あまりこの話をすると涙でしゃべれなくなりそうだったので、簡単に話して終わる。

今週、たまたま藤沢での授業があったおかげで、こうして祖母の逝去に立ち会うことができたのも奇跡だし、また、葬儀場のスケジュールの関係上、告別式が17日の午前中になったおかげで、あきらめかけていた告別式への参列ができるようになったのも奇跡だ。

叔母から「病院の先生からは、こんなにもったのは奇跡だ、って言われたのよ。おばあちゃんは、きっと、たまちゃんのスケジュールに合わせて待っていてくれたんだねえ…」と言われる。本当に、そうかもしれない。

肉親の死でも休めないというのが僕の仕事だから、と納得はしていたし、家族にもそれは伝えていた。因果な商売と言えば因果な商売ではあるけれど、祖母の性格からすると「自分のことで家族に迷惑はかけたくない」と思っていただろうし、「私に何かあったからといって、仕事を休むことは無いよ」と間違いなく言っていたと思う。勿論、僕としては本当はずっとずっとずっと祖母の傍にいたいのだけれど。

授業が終わり、帰路につく。少しでも気を抜くと涙が溢れてくる。

まだ、玄関を開けると、祖母が「たまちゃん、おかえり」と出迎えてくれるような気がしてならない。だけど、待っているのは、残酷な現実だけなんだともわかっている。

帰宅すると、叔父・叔母・従弟たちがいて、にぎやかに食事をしていた。

「こんなにみんなが顔をそろえたのは久しぶりだね。きっと、おばあちゃんが呼んでくれたんだよ。」

今夜は、朝までこうして祖母の部屋で、祖母と一緒にいようと思う。

おばあちゃん、ほうとうの作り方、まだ教わってなかったよ。

おばあちゃん、僕が来るたびに美味しい味噌汁を作ってくれてありがとう。

おばあちゃん、小さい頃からいつも心配ばかりかけてごめんね。

おばあちゃん、これからも見守っていてくださいね。

おばあちゃん、あなたの与えてくれたかけがえのない優しさは、絶対に忘れません。

おばあちゃん、天国で、おじいちゃんと会えましたか。

おばあちゃん、天国で、硫黄島で戦死したお兄さんと会えましたか。

おばあちゃん、家のことは、みんなでがんばって少しずつやっていくから心配しないでね。

おばあちゃん、みんなみんな、おばあちゃんが大好きだよ。

おばあちゃん、あなたの孫として生まれたことを、誇りに思っています。


おばあちゃん、もう一度、会いたいよ。


おばあちゃん、せめて、あと数時間、甘えさせてください。

         山添 都
       やまぞえ みやこ

   2007年8月15日午前5時23分、天上

         享年87歳

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