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2007/08/30

早く見てみたい。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』

http://www.evangelion.co.jp/news.html

夏の終わり

明日で8月も終わり、来週からはいよいよ新学期が始まる。

既に冬期講習会用のテキスト作成も始まっており、また、大学での講演も12月の予定が入っているため、秋はどこへやら、といった感があるが、授業の合間を縫って9月には九州保健福祉大学で、10月には金城学院大学でも講演があるため、秋は秋で慌ただしくなる。

僕は生来の不精者で怠け者なので、これくらい忙しい方が丁度良い。

それに、「忙」という字は「心を亡くす」と書くが、悲しいことや辛いことや心の痛みをひとときでも忘れられるならば、心を亡くしても構わない。

今日と明日はSESのレギュラー授業。明後日は所用で東京に日帰り。日曜日は岡山で「ウルトラマンフェスティバル」(爆)。

いろいろある。
(´・ω・`)

2007/08/18

野辺の送り

昨日、8月17日、祖母の告別式がつつがなく終わりました。

皆様におかれましては、あたたかき追悼や励ましのおことばを頂戴し、心より御礼申し上げます。

==========
16日。授業のあと帰宅するが、祖母の亡骸は既に斎場に運ばれており、祖母が眠っていた部屋とベッドは、主を失ってがらんとしていた。やっぱりまだ信じられない。

16日の夜は通夜だったが、会場に出入りできる時間が限られていたために参列を断念した。

17日の朝、8時に斎場に向かう。

9時から告別式が始まる。読経と焼香が続く。事あるごとに涙が溢れてくる。ただ、久しぶりに会う親戚、知人たちのおかげで、かなり慰められたが。

今更ながらだが、告別式というものは、悲しみを共有し、励まし合い、残された人々が未来を生きて行こうとする思いを育むための場なのだなぁ、と実感する。

家族の誰一人、祖母がいなくなったことを信じてはいないと思う。これから事あるごとに「ああ、おばあちゃんはもういないんだ」と実感することになるのだとは思うが。

9時40分、読経が終わり、弔電が紹介されたのち、葬儀委員長と喪主からの挨拶があり、その後、祖母の棺に花を入れる。

祖母は花が大好きで、猫の額ほどの実家の庭も祖母が端正込めて育てた草花で埋め尽されているほどだ。

祖母の戒名は「温花院日都信女(おんげいんにっつしんにょ)」になった。温かい心を持ち、花を愛でた祖母にとっては最高の戒名だと思う。

祖母の棺が花で埋め尽される。涙が溢れて止まらない。

最後に、家族・親族で棺の蓋を閉める。

「お孫さん二人で、顔の蓋を閉めてください」と言われ、僕と従弟で蓋を閉めた。

出棺。近くの火葬場に向かう。これで本当に最後のお別れだ。

係員が淡々と火葬までの手順を執り行う。

「最後にお顔を見てお別れを」

その言葉に促され、みんなでお別れを述べる。

みんな、お別れというよりむしろ「おばあちゃん、ありがとう」とお礼を言っていた。

あとから親戚の誰かが、「おばあちゃんの実の子は二人だけど、み〜んなおばあちゃんに育ててもらったからな」と言っていた。その通りだと思う。

僕はおばあちゃんに「またね」と言った。きっとまたいつか会えるから、その時までしばしのお別れ。

また、僕と従弟で顔の蓋を閉める。

炉の扉が開き、棺を入れる。涙が止まらない。扉が閉まる寸前に、万感の想いを込めて叫んだ。

「おばあちゃん!ありがとう!」

お骨あげまでの間、親戚や知人と話をする。諦めからか、ホッとした空気が流れる。

約1時間半後、お骨あげ。

二人一組になり、箸で祖母の骨を拾い、骨壺におさめる。

真っ白な骨のいくつかが、仄かなピンク色に染まっている。

「花の色素が骨に染み込んだものです。」

と係員が説明してくれた。

花が大好きなおばあちゃん。花に包まれて良かったね。

お骨あげが終わり、従弟の運転する車で近くの駅まで送ってもらい、藤沢に向かった。

最後の授業が終わる直前に雷が鳴って、豪雨が降り注いだ。まるで台風のようだった。

きっと、涙雨。

藤沢駅では、東海道線が落雷による信号トラブルで不通になっていた。

とりあえず車内で待っていると、30分後にようやく運転を再開した。

帰宅すると、父の従弟や叔母、従弟が飲みながら話をしていた。

父の従弟も祖母に育ててもらった一人で、意識のあるうちに見舞いに来れなかったことをしきりに悔やんでいた。

もっとも、亡くなる前日に彼が病室に来たとき、それまでほとんど何の反応もなくなっていた祖母が激しく泣き出したから、祖母も会いたくて仕方がなかったのだろう。

夜中の1時半まで痛飲。とにかく飲んで飲んで飲んで飲んだ。

今朝は軽く二日酔いになり、頭がぼぉっとしていた。これまでのことが悪い夢であってくれればよかったのに。

今日は息子を連れて映画を見に行った。

まだ悲しみは癒えない。だが、残された者たちが元気で幸せに生きること、それが祖母への何よりの供養であり、自分のことよりも周りの人の幸せを献身的に願った祖母が望んでいることだと思う。

2007/08/16

無題

いま、祖母の眠る寝室にいます。今夜は、祖母が家で過ごす最後の夜です。

16日が通夜、17日が告別式ですが、授業の関係で通夜には参列できないため、今夜はできる限り、傍にいたいと思います。

==========
14日(火)

19:55に授業が終わった後、病院に向かう。大井町で下車し、弁当を購入して、病室で食べる。病室には母がいて、この夜は母が一晩付き添うことになっていた。この時点では、いつ、どうなるかわからなかったので、母と叔母が日替わりで病室に泊まる予定だった。

祖母は酸素吸入と点滴でしのいでいた。呼吸は1分間に6~10回程度と非常に少なく、かわりに心拍数が130前後であった。呼吸が少なくなった分、心臓が必死に血液を全身に送り込んで酸素を行き渡らせているかのようだった。

途中で、看護士が見回りに来る。瞳孔反射はある、とのこと。

23時半ごろ、病室をあとにして帰宅する。

==========
15日(水)

朝5時過ぎに、病院に泊り込んでいた母から電話があったようで、父に起こされた。

「心拍数が50を切ったそうだ。一度、心臓が止まったらしい。」

支度して、父の運転する車で病院に向かう。

病院に着いたのは5時半ごろ。既に叔母・叔父・従弟が来ていた。

「ついさっき、心臓が止まったよ。」

叔母が泣きながらそう告げた。

母に尋ねると、5時23分に心停止したままとのこと。

祖母の顔やおでこに触れる。まだ温かい。布団の中の手もとても温かくて、死んでしまったなんて思えなかった。

その後、担当医師と看護士が来て、死亡を確認した。

「5時50分、死亡を確認いたしました。」

死亡診断書にはこの時刻が記載されているが、母は親戚に「5時23分に亡くなりました」と連絡をしていた。祖母の誕生日は5月23日。5・23という数字に縁があったのかもしれない。

ある程度、覚悟はできていた。いつかこの日が来ることもわかっていた。だけど…。

僕が生まれてから36年と9ヶ月。共働きの父母にかわって、祖母は、僕を育ててくれた。

祖母は、限りなく優しかった。甘やかす、ということではなく。口やかましい部分もあったけれど、間違ったことは言ってなかった。

祖母は、感情的に怒ることはなかったけれど、一度だけ、僕が小学6年生のとき、家を建て直していて仮住まいのときに祖母と銭湯に行く途中で、僕が何かであまりに我侭を言ったものだから、祖母を泣かせて怒らせてしまった。そのことを、なぜか今でも覚えている。

祖母は、とても茶目っ気があって、とてもお洒落で、何より「ハイカラ」だった。

昔、祖母がバスの車掌をしていた写真を見せてもらったことがある。まだ祖母が20代の頃だと思うけれど、バスのステップのところで、とてもかわいらしくはにかんでいたモノクロの写真だった。きっと、遺品を整理したら出てくると思う。そうしたら、大切に保管しておこう。

祖父が巨人ファンだったからかどうかは知らないけれど、祖母は巨人ファンだった。「最近の選手はよくわからないねえ」とは言っていたけれど、僕よりもはるかに野球選手のことは知っていたし、最近のタレントのこともよく知っていた。

僕は、幼い頃、喘息を患っていたので、よく発作を起こしては大井町の病院に連れて行ってもらった。たぶん、僕が幼稚園、祖母が50代の頃のはずだが、祖母におぶってもらって連れて行ってもらった覚えがある。

「今度は、僕がおばあちゃんをおんぶする番だね。」

大人になってからは、よくそう言っていたけれど、残念ながら、一度もかなわなかった。

15日の朝、病院から自宅に連れ帰ったときに、おんぶこそできなかったけれど、従弟と一緒に祖母をベッドに横たえた。せめて、生きているうちにおんぶできればよかったのに。悔しくて、悔しくてたまらない。

死亡確認の後、病室で、処置をしてもらう。

お気に入りの水玉模様のドレスを着せてもらい、綺麗にお化粧してもらった。薄紅の唇。まるで生きているかのようだ。今にも、「あら、たまちゃん、おはよう」と言って起き上がってくれるのではないか、と思うばかりだ。

祖母は、体調を崩すまで、家事を全て切り盛りした。家の誰よりも家の中のことをよくわかっていて、まさに我が家の「心臓部」だった。

僕が仕事に出かけるときは、必ず玄関から出て、手を振って見送ってくれた。

去年から秀英予備校での仕事をしているおかげで、今年の6月いっぱいまでは、ほぼ毎週、祖母が見送ってくれたけれど、僕は「こうしておばあちゃんに見送ってもらえるのは、あと何回なんだろう…」と不安にも思い始めていた。

処置ののち、祖母の亡骸は霊安室に運ばれ、そこで葬儀屋の迎えを待つ。

午前8時過ぎ、葬儀屋の車で帰宅した。

父と母が家に先回りして祖母が自分の部屋に入れるように片づけをしてくれていた。

ようやく、おうちに戻れたね。おかえりなさい。

祖母の寝ているベッドは、もともと僕が使っていたものだった。年をとってから布団の上げ下げが辛くなったこともあり、腰掛けてそのまま横になれるちょうどいい高さだったので、いつからかそれを使うようになった。

普段は南向きに寝ているけれど、今日は北枕。おばあちゃん、いつもと向きが違ってごめんね。

部屋の中はほとんどそのまま手付かずで残っている。今は、その部屋の中で、こうして日記を綴っている。どこを見渡しても、祖母の温もりが伝わってくる。涙が止まらない。

昼過ぎに、藤沢に出かける。

火曜日の授業で、祖母の体調が悪いという話をした。生徒の何人かが心配して、「先生、大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。まさかその翌日に、祖母が亡くなったという話をすることになるとは思ってもいなかったけれど。

もちろん、全くの私事なのだから、授業でそのような話をする必要は無いのかもしれない。だけど、心配してくれている生徒さんもいたので、言わずにはおれなかった。ただ、あまりこの話をすると涙でしゃべれなくなりそうだったので、簡単に話して終わる。

今週、たまたま藤沢での授業があったおかげで、こうして祖母の逝去に立ち会うことができたのも奇跡だし、また、葬儀場のスケジュールの関係上、告別式が17日の午前中になったおかげで、あきらめかけていた告別式への参列ができるようになったのも奇跡だ。

叔母から「病院の先生からは、こんなにもったのは奇跡だ、って言われたのよ。おばあちゃんは、きっと、たまちゃんのスケジュールに合わせて待っていてくれたんだねえ…」と言われる。本当に、そうかもしれない。

肉親の死でも休めないというのが僕の仕事だから、と納得はしていたし、家族にもそれは伝えていた。因果な商売と言えば因果な商売ではあるけれど、祖母の性格からすると「自分のことで家族に迷惑はかけたくない」と思っていただろうし、「私に何かあったからといって、仕事を休むことは無いよ」と間違いなく言っていたと思う。勿論、僕としては本当はずっとずっとずっと祖母の傍にいたいのだけれど。

授業が終わり、帰路につく。少しでも気を抜くと涙が溢れてくる。

まだ、玄関を開けると、祖母が「たまちゃん、おかえり」と出迎えてくれるような気がしてならない。だけど、待っているのは、残酷な現実だけなんだともわかっている。

帰宅すると、叔父・叔母・従弟たちがいて、にぎやかに食事をしていた。

「こんなにみんなが顔をそろえたのは久しぶりだね。きっと、おばあちゃんが呼んでくれたんだよ。」

今夜は、朝までこうして祖母の部屋で、祖母と一緒にいようと思う。

おばあちゃん、ほうとうの作り方、まだ教わってなかったよ。

おばあちゃん、僕が来るたびに美味しい味噌汁を作ってくれてありがとう。

おばあちゃん、小さい頃からいつも心配ばかりかけてごめんね。

おばあちゃん、これからも見守っていてくださいね。

おばあちゃん、あなたの与えてくれたかけがえのない優しさは、絶対に忘れません。

おばあちゃん、天国で、おじいちゃんと会えましたか。

おばあちゃん、天国で、硫黄島で戦死したお兄さんと会えましたか。

おばあちゃん、家のことは、みんなでがんばって少しずつやっていくから心配しないでね。

おばあちゃん、みんなみんな、おばあちゃんが大好きだよ。

おばあちゃん、あなたの孫として生まれたことを、誇りに思っています。


おばあちゃん、もう一度、会いたいよ。


おばあちゃん、せめて、あと数時間、甘えさせてください。

         山添 都
       やまぞえ みやこ

   2007年8月15日午前5時23分、天上

         享年87歳

2007/08/15

ありがとうございました。

8月15日、午前5時23分、祖母は息をひきとりました。

最後まで心臓を一生懸命動かして、眠るように、安らかに息をひきとりました。

皆様には激励のお言葉を頂戴し、心から感謝いたします。ありがとうございました。

2007/08/14

断腸の思い

今朝、祖母の見舞いに行った母から電話があった。

「おばあちゃんの様子がおかしいから、すぐ支度して病院に来なさい」

とのこと。

昼から仕事なので、その前に病院に顔を出そうかと思っていたが、予定を早め、急いで支度をして出かける。

祖母は個室に移され、ベッドに横たわっていた。既に父も職場から駆け付けていて、父の妹、つまり叔母も来ていた。

昨日の昼に病室を訪ねた時は、祖母とは普通に話が出来たが、今朝はうってかわって、反応がない。

「ほら、玉基が来たよ」と母が語りかけると、目を開けてこちらをちらりと見たきりで、声が出せない。呼吸が苦しそうで、時折声にならない声を発したり、足を動かそうとするが、こちらが何を語りかけても、頷くことすらできない。

祖母は、年をとって体は弱くなったものの、頭ははっきりしていて、家事を一切切り盛りしていたから、きっと今も、頭ではわかっているのに、体が思うように動かなくて、もどかしいのだと思う。

両親と叔母が祖母の手足をさすっている。僕は、祖母の右手を握る。昨日までは握りかえしてくれたのに、今朝は握りかえす力もない。

鼻には酸素吸入の管が入っているため、口を開けて呼吸することが多く、舌が乾燥して荒れている。水を飲ませてもうまく飲めずに吐いてしまうため、母が綿球のついた棒を湿らせ、舌の表面を拭く。

本当は、このままずっと祖母の手を握り続けていたかったけれど、午後からの授業に穴を開けるわけにはいかないので、止むを得ず病室をあとにする。

だが、考えてみれば、今週がたまたま藤沢校舎での講習で幸いだったのかもしれない。

これが岡山や静岡や浜松だったならば、こうして祖母の手を握ることさえ叶わなかったのだから。

2007/08/13

青空、ひとりきり

昨日は東京に着いてすぐに、祖母の入院している病院に直行した。日曜日ということもあり、親戚や知人が見舞いに来ていた。

祖母は一度退院して、数週間自宅で療養していたが、先週の半ばから再入院した。肺癌で、呼吸器に問題があるため、酸素吸入をしなくてはならない。家庭では難しく、また、足腰がかなり弱っていることもあり、仕方なく再入院となった。

この前祖母に会ったのは、7月22日。宮崎から静岡への移動で東京を経由したので、その途中、実家に立ち寄った時だった。その時はまだ自宅で療養していた。

その時と比べると、昨日はだいぶ体が弱っていた。普段は滅多に顔をあわせることがないような親戚や知人も来たから、何かを感じとったのかもしれない。

今日は、朝、母と共に祖母の見舞いに行き、その足でいま、藤沢に向かっている。

青空が眩し過ぎて、涙がとめどなく流れてくる。

2007/08/12

大迷惑

明日からの藤沢校舎での講習会のため、只今東京に移動中。

ところが、岡山を出て15分ほど経ったころ、いきなり徐行した。

「只今、相生・姫路間で線路内に人が入っていると連絡がありました。安全確認のため、徐行運転を行っております。この先、遅れが出ますことをあらかじめご了承ください。」

だそうで…(-_-#)。

暑いせいか、迷惑な輩が増えたのかもしれない…。犯人が特定されたら損害賠償を請求されるだろう。

…と書いていたら、「只今、安全の確認がとれましたので、所定の速度で運転を再開します。姫路駅を6分遅れで通過します。」

とのアナウンスが。

やれやれ。(-"-;)

2007/08/11

真夏のホラ

SESの夏期授業第一期は終わったが、今度は色々な原稿の〆切が迫りつつあるので、今日は午後から塾に缶詰でひたすらパソコンに向かった。

集中的にやったのでかなり進んだが、まだ先が長い…。

授業でも話したけれど、自分はこの先いったいあと何年、この仕事を続けられるのだろうか。勿論、年をとってもこの仕事ができないわけではないし、この仕事が嫌というわけでもない。

ただ、きっと僕は欲張りで悲観的なのだろうと思う。

第一線で、プロとして恥ずかしくない授業をし続け、求められる水準の原稿を書き続けられるかどうか、ということなのだ。だから、欲張り。

今はまだどちらかと言うと若く(苦笑)、体もどうにか動く。多少の無理もきく。だが、年をとるにつれて無理がきかなくなったらどうすればいいのか。自分の能力で、あと何十年も第一線で活躍できるのか。不安で堪らない。だから、悲観的。

とは言え、不安の正体はわかっている。

勉強不足なのだ。

今から18年前・学生の頃の自分と比べると、だいぶ進歩したとは思う。学生の頃の自分の授業を今の自分が見たら、きっと情けなく、腹立たしく思うだろう。

だとしたら、せめて、18年後の自分が今の授業を見た時に同じように思えるよう、勉強して、進歩しなくてはならない。

何と単純なことか(笑)。

そして、これまで培ってきたことを何らかのかたちにもしていかねばならない。

学生の頃、ある人に「30歳までに参考書を出す」と言ったことがある。悔しいが、その約束は守れなかった。

だからここで、ホラ半分で、40歳までに本を一冊書く、と宣言しよう。

…(・_・;)

2007/08/10

SES夏期授業

火曜日からSESの夏期授業が始まった。

予備校の授業とは異なり、椅子に座ってのんびり喋るスタイルなので、長時間喋っても体への負担は少ない。

とは言え、座ったままだと尻が痛くなるので、時折立ち上がるし、板書をするときも立ち上がるが、生徒さんとの距離が近いので、立ちっぱなしで授業をすると、威圧感があると思い、なるべく座るようにしている。

アグレッシブにガンガン喋る予備校スタイルと、少人数を前にのんびり喋る塾スタイルのどちらにも一長一短があるから、どちらが優れていると一概に決めつけることはできないし、TPOに合わせて使い分ければいいのだが、片方の僕しか知らない生徒さんがもう一方の僕を見たら驚くかもしれない。

たとえて言うなら、同じバンドがエレクトリック・スタイルで演奏するのとアンプラグド・スタイルで演奏するようなものかもしれない。

今週一杯はSESの夏期授業で、来週からは秀英予備校の藤沢校舎で夏期講習だ。

その合間を縫うように、原稿もあれこれ書かねばならないし、もう冬期講習会に向けてテキストを作成しなければならない。

仕事のあるうちが華、なのだと思う。

2007/08/06

62年目の夏

62年目の夏
昨日から所用で広島に行っていた。

いま、広島では原爆に関連した展示会などの行事が盛んに行われているが、昨日は時間があったので、その一つを見に行った。

また、袋町小学校で発見された、「被爆の伝言」も見てきた。

これは、原爆投下後に救護所として使われていた袋町小学校(当時は袋町国民学校)の壁に家族や知人の消息などを訪ねる伝言や、自分の居場所を知らせる伝言が書かれたもので、1999年に発見され、2000年の校舎建て替え時に調査が行われたものだ。

既に肉眼では判別が難しくなっている文字もあるが、科学的分析と専門家による判読のおかげでかなりの情報が明らかになった。

消息を求めていた小学1年生の子どもたちは、未だに行方不明だという。当時は夏休みが8月10日からで、この日は低学年の子どもたちが登校しており、被害に遇ったのだ。袋町小学校は、爆心地から数百メートルしか離れていない。

原爆は、何の罪もない幼子の命、未来を一瞬にして奪い去ったのだ。

そして今日、8月6日は広島に原爆が投下されて62年目の8月6日であり、広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式が行われる日でもある。

これまでに何度か広島を訪れ、原爆資料館などを訪問したことはあるが、この式に今回初めて出席することができた。

今朝は6時半に起床。朝食ののち、会場である平和公園に向かう。

起きた時はかなり雨が降っていたが、会場に向かう頃には止んでいた。

会場に着いたのは7時50分頃。既に多くの人々が集まっていた。後の方は座席が少し空いていたので、どうにか座れた。

午前8時。式は定刻に始まった。

この一年に死亡が確認された被爆者5221名の名簿が納められた。

広島市の秋葉市長のスピーチは実に堂々たるものだったが、参列していた安倍首相をはじめとする閣僚や議員は、果たして秋葉市長の話をきちんと理解したのだろうか。

8時15分。

原爆が投下されたこの時刻に黙祷を捧げる。

子ども代表の小学6年生の二人も、大きな声ではきはきとスピーチを行った。

それに比べると、安倍首相のスピーチはマイクから離れて喋っていたのか、何を話しているのかよく聞き取れず(テレビで見るとはっきり聞き取れるが、会場では後まで声が届かなかった)、何だか、あまりやる気がないように思えてならなかった。

それにしても、実にタイミングが良いというか悪いというか、今朝のニュースでは「安倍内閣支持率22%(局によっては24%)で過去最低」と報じられ、昨日は被爆者代表との懇談で「原爆症認定の見直しと被爆者支援の充実」を約束したものの、どうやら厚生労働省には全く寝耳に水だったようで、「具体性に欠け、参院選大敗後の人気取り」にしか思われなかったようだ。

ましてや、憲法第9条を「改悪」しようなどと企てている首相の言うことなど、誰があてにできようか。

もっとも、ここまで間が悪いと首相に同情したくもなるが、もしかしてこれは作戦なのだろうか、と勘繰りたくもなる。

8時45分、式はつつがなく終わった。

式のあと、会場では冷たいおしぼりと水のサービスがあった。曇り空で暑さはやや和らいでいたが、その分、湿度が高く、じっとりとした空気が肌に絡み付くようであったので、この冷たいおしぼりと水は何よりもありがたかった。

会場の周辺では、平和団体が歌を歌ったり、ビラを配ったりと様々に活動していた。

中には、式に便乗して全く原爆と無関係のビラを配っている団体もいたし、花を手に何やら喚き散らしている中年女性を5〜6人の警官が取り囲んで会場外に連れだす、というものものしい風景もあったが…。

広島の若い人の中には、小さい頃から嫌と言うほど原爆の話を聞かされ、うんざりしている人もいる、と昔どこかで聞いたことがある。

その気持ちはわからなくもない。「日本はこんなに平和なのに、今さらそんな昔のことを蒸し返しても…」「核兵器なんて、自分の生活には何の関係もない」などと思う人もいるかもしれない。

だが、被爆体験を持つ人々が年々亡くなっている一方で、戦争に荷担することを望む為政者がいて、尚且、世界で唯一、実戦で核兵器を使用して大量虐殺を行ったにも関わらず、公式な謝罪すらせずに日本を植民地の如く扱い、日本の為政者を操るアメリカという国がある以上、僕たちは、二度とあのようなことが起こらぬよう、常に見張り続け、語り継がねばならないのだ。

貧乏人は死ぬしかない。

貧乏人は死ぬしかない。
以前から読みたかった本が、先日ようやく手に入った。

NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班・編
『ワーキングプア〜日本を蝕む病』(ポプラ社)

ホームレス化する若者、崩壊寸前の地方、死ぬまで働かざるをえない老人…豊かになったはずなのに、「貧困」なんてとっくの昔になくなったと思っていたのに、実は「貧困」はすぐ目の前にあり、「明日は我が身」なのだと思い知らさせる本である。

「生活保護を受けるしかねえって、いってもな。この家を手放すことはできねえ。俺は仕立屋だからな。家があれば生活保護が受けれねえって言うんだべよ。したら、仕方ねえ。貧乏人は死ぬしかねえべ」(p.71)

74歳になる洋服仕立屋の鈴木さんの言葉だ。秋田県角館の中心商店街に店を構えているが、得意先である農家や商店主が不景気でスーツを作らなくなったことに加え、スーツの安売りをする量販店が郊外にできたことで、「去年の年収をたずねると二十万円」(p.58)という状況である。

だが、これは角館に限ったことではないし、高齢者に限った話でもない。これは日本全国で進行している事象であり、若者も、働きたくても、不安定な派遣の仕事ばかりで正社員になれなかったり、無資格者であるなどの理由で仕事に就けないのだ。

企業側からすれば、低賃金の労働力を海外に求め、必要な時だけ雇える「都合の良い」派遣社員を使うのは理に叶っているし、資本主義では「弱肉強食」が原則なのだから、大型ショッピングセンターのような資本力の大きな企業が地方に進出すれば「ひとり勝ち」になり、何の対策も打てないまま地元の産業が衰退するのも止むを得ないのかもしれない。

かたや、消費者は消費者で「安いもの」「便利なもの」を求め、企業にコストダウンを迫る。高いものを買おうにしても、賃金は上がらず、将来の不安もあって支出を控える。

景気が良くなっただの、デフレスパイラルから脱しただのと言うが、それが仮に事実としても、これはあくまでも大都市圏の話に過ぎないだろう。地方との格差はますます広がるばかりだ。

「貧乏人は死ぬしかねえべ」

鈴木さんの言葉は、決してひと事ではない。

2007/08/04

ウラシマタロウ

半月ぶりに岡山に戻ったら、工事中だった岡山駅東口が綺麗に完成していたので驚いた…。
(・_・;)

これが少しでも財政難の岡山市の賑わいに貢献することを願うばかりである。
(-"-;)

真夜中の絶叫

真夜中の絶叫
昨日で浜松での講習は終了。80分連続5コマ×5日間の一番ハードなタームが終わり、ホッとひと安心。

5コマ連続というのは次から次へと襲い来る量産型エヴァと戦うようなもので、気分はまるで惣流・アスカ・ラングレー(笑)。


「負けてらんないのよ〜!!!!」


授業のあと、疲れた体を引きずってコンビニで夕食を買い、ホテルに戻って夕食を済ませ、マッサージでも頼もうかと思いつつベッドの上に寝転んでテレビのニュースを見ていたら、いつの間にか眠ってしまった。多分、22時半頃だろう。

目が覚めてベッドについている時計を見ると「12:58」の表示。

それを見た瞬間、「午前」12:58ではなく「午後」12:58と勘違いし、

エッ…(・_・;)

☆◇●※△□◇…

「うそッ!!!!!!」


と絶叫して飛び起きた(笑)。

昨日まで毎日13:05から授業があったので、

(1)「ヤベェ!授業に遅刻する!」

と勘違いした(苦笑)のと、今日の岡山に帰る新幹線が朝の10時過ぎの出発のため、

(2)「ヤベェ!乗り遅れた!」

と二重の勘違いをして、真夜中のホテルの部屋でひとり絶叫したわけだ。

落ち着いて考えれば、

(1) 授業は昨日で終わっている(爆)。
(2) 僕の体力では15時間近く一度も目覚めずに眠り続けることはできない(苦笑)。

のだから、「ああ、もう夜中の1時か…」と気付いても良さそうなものだが、何しろホテルの部屋は閉めきっていれば昼夜の区別がつかず、また、ホテルの時計が24時間制ではなく小さく「AM/PM」の表示がある12時間制のため、つい寝惚けて勘違いしたようだ。

やれやれ。

そんなこんなで、もう2:40。

もう寝なくては…。

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