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2004/12/17

受験英語のナニが悪い?(2)

●良い学生を育てる入試問題とは?
 入試問題には、大きくわけると、ふたつの機能があります。ひとつは、「落とす」機能、もうひとつは、「入れる」機能です。そもそも試験を課すということは、受験生をふるいにかけることですから、「落とす」機能があるのは当然ですし、この機能は難問や知識問題を課すことによってなしとげることができます(実は、「落とす」問題や難度の高い問題をつくるのは非常に容易なのです)。

 しかし、入試には「入れる」機能があることも見落とすべきではないと思います。たとえば、医学部に入るのに「細胞のしくみ」について知らない、となると問題ですし、英文科に入るのに“This is a pen.”が訳せなかったりしたらこれも大問題です(余談ですが、少子化に伴う受験生人口の減少のために、医学部で生物を入試に課さない大学が登場して波紋を投げかけたことがあります。当然ながら、この場合、大学で補習をする必要がありますが、受験者数の減少に伴ってそうした大学が今後増加する可能性は高いと思われます)。

 つまり、「入れる」機能とは、その受験生が大学で学ぶに足りうる資質や基礎知識を有しているかどうかをみる、という意味であり、少子化に伴って「落とす」機能よりも重視される可能性が高いのがこの「入れる」機能なのです。

 少子化で受験生が減れば入試をする必要もなくなるのではないか、と考えておられる方もいらっしゃると思います。確かに、入試など廃止して、公平に「くじ引き」で決めてしまえばいいのかもしれませんが、大学も民間企業である以上、「受験料」の名目で徴収している収入がなくなることは大学の存続に関わる大きな問題ですから、どんな名目であっても入試を行ない続けねばならないのです。その証拠に、現在、さまざまな私立大学で複数の受験方式を採用し、受験生に門戸を広げていますが、これは、受験料を何度も徴収できるという「うまみ」があるから何度も試験を行なっているともいえます。

 このように、経営上の問題から大学入試を廃止することが事実上不可能である以上、今後も入試は続いていくものと考えられます。しかし、これまでのような「落とす」機能を重視した試験よりも、今後は「入れる」機能を重視した試験へと移行していくでしょうし、そうせざるを得ないのではないでしょうか。

 多くの大学では、パンフレットなどで「合格者平均点」や「合格者最低点」などを公表していますが、すでに短期大学などでは「合格者最低点」と「受験者最低点」が同値であることがしばしば見受けられます。つまり、「受験者は全員合格」、ということです。

 このような現状を踏まえて、現在、一部の大学では、試験の難度を下げて易しい問題を出題するという傾向にあるようです。しかし、問題は、難度を下げることよりも、受験生を大学生にするために必要な知識・考え方を問う試験問題をつくることにあるのではないでしょうか。

 そのためには、大前提として、大学教育とはそもそも何であるのかについてのコンセンサスが必要となります。さらに、それをもとにして、大学の教育方針を反映した入試問題を作成することが、良い学生を育てるためにもっとも必要なことなのではないでしょうか。

 ところが、ここでひとつ大きな問題が待ち構えています。それは、これまで入試問題を作成してきた中心である教養教育課程の解体です(ただし、これまでの教養教育課程が、真の教養教育を体現してきたかどうかは、かなり疑わしいのですが…)。

 私自身、模擬試験を作成したことがあるのでその経験から類推すれば、入試問題をつくるという作業は、きわめて面倒なものであるはずです。なにしろ、ミスがあってはならないのですから(このところ、入試問題でミスが発覚すると、3月下旬から4月にかけて新聞で報じられ、事後処理に大きな労力が費やされていることが推測されます)。また、そもそも大学教員の仕事内容(研究と教育)とは無関係と思われてきましたから、いい加減な問題をつくったり、作問者の趣味に走った問題をつくったり、はたまた予備校に外注するのは、ある意味では至極当然のことです。

 しかし、入試問題をつくるという作業こそ、大学教員がもっとも真剣に考えるべきことのひとつではないでしょうか。入試問題は、なによりも早く受験生に対峙する、大学の「顔」であり、前にも述べたように、受験生に大学側の主張を訴える最大のメディアなのです。豪華なパンフレットには見向きもしない受験生でも、入試問題は必ずといっていいほど解きますし、俗に『赤本』と呼ばれる過去問題集は受験生の必須アイテムです。

 大学が真に教育機関足りうるためには、まず、入試問題を見直すことから始めねばならないでしょう。すると、その過程で、「大学教育とはなにか」を考えざるをえなくなるはずです(ただし、これは本末転倒したプロセスです。本来は、「大学教育とはなにか」を先に議論し、そのあとで、その議論を反映した入試問題を作成すべきなのです)。


●辞書の持ち込みと知識問題
 たとえば、英語の場合、ほとんどの大学では辞書が持ち込み不可となっています。このために受験生の多くは、とにかく単語や熟語を詰め込まねばならない、あるいは、単語や熟語を丸暗記さえすればどうにかなる、という幻想を抱き、その結果、単語と意味と発音記号と例文を並べただけ、という何の意味もない「単語集」があたりまえのように売られています(戦後のベストセラーの一つに、森一郎『試験に出る英単語』[青春出版社]があったことを鑑みればおわかりだと思いますが…)。

 なぜ辞書を持ち込むことができないのか?理由はいくつか考えられると思いますが、おそらく、最大の理由は、辞書を持ち込み可にした場合、語彙の知識問題を作成することができなくなる、ということではないでしょうか。実際に、辞書の持ち込みを想定した問題を作成してみればわかることですが、辞書で調べてしまえば難なく解ける、単純な知識問題は全く作問することができません。そうなると、大学側は全面的に問題の構成を練り直さねばなりませんし、これまでは楽に作成できた知識問題がほとんど出題できなくなるわけですから、出題者の手間も増えます。

 では、辞書持ち込み可としている大学の問題は、具体的にどのようなものでしょうか?たとえば、慶應義塾大学文学部では、1992年度より英和辞典・英英辞典のうち1冊の持ち込みを許可しています(その後、英和辞典・和英辞典・英英辞典のうち2冊の持ち込みを許可するようになりました)。

問.以下の英文は、ロシアの作家Alexander Solzhenitsyn(A.ソルジェニーツィン)が1978年に米国の Harvard Universityで行った講演“What is the Joy about?”である。これを読んで、次の問題に答えなさい。(Ⅰ)下線部(1)を日本語に訳しなさい。
(Ⅱ)下線部(2)を日本語に訳しなさい。
(Ⅲ)下線部(3)を日本語に訳しなさい。
(Ⅳ)下線部(a)は何を指すか。本文中の英語で答えなさい。
(Ⅴ)下線部(b)は何を指すか。本文中の英語で答えなさい。
(Ⅵ)下線部(c)は何を指すか。本文中の英語で答えなさい。
(Ⅶ)次の日本語を A fact で始まる英語に訳しなさい。
 明らかな事実は、福沢諭吉の考え方が、同時代人のそれよりも、はるかに進んでいたということである。
(Ⅷ)ソルジェニーツィンの東欧観はいかなるものか。日本語で140字以上、160字以内にまとめなさい。
[本文は省略]
(1994年度慶應義塾大学文学部)

 本文は942語とかなり長く、内容もやや難しいのですが、この問題では語彙の知識については辞書を調べればいいのですから、大切なことは、本文の内容を正しく理解できたかどうか、また、文法的に正しく考えることができているかどうか、ということになります。

 また、Ⅶの和文英訳(英作文)にしても、実は、本文中に用いられている表現を使えば解答が導き出せるようにつくられているため、予想以上に易しいといえます。

 大学で学ぶうえで大切なことは、知識そのものではなく、知識の活用の仕方であり、どのように知識を獲得し、整理し、アウトプットするかが入試問題においても問われるべきではないでしょうか。

 私は毎年、何人もの生徒と向かい合っていますが、このごろ「電子辞書」を使う生徒が増えてきたのが目につきます(ちなみに、前出の慶應義塾大学文学部では電子辞書の持ち込みは不可です)。また、そもそも辞書をひくことができない生徒も増えているようにも思えます。

 職業柄、単語や熟語についての質問をうけることがしばしばありますが、辞書をみれば容易に調べることができるはずなのに、辞書をみずに質問をしたり、はたまた、「辞書を見たけれどわからない」と言って質問にきたものの、実は、きちんと調べることができていないために見落としてしまっているケースが多く見受けられます。

 辞書には意味と発音記号以外にも多くの重要な情報が掲載されています。いわば、英語を学ぶうえでは「宝の山」なのです。しかし、宝の山も、使うことがなければ単なるゴミに過ぎませんし、使い方がわからなければそれこそ宝の持ち腐れです。

 辞書の持ち込みを認めることにより、受験生の精神的負担が軽減されるばかりでなく、日ごろから辞書を活用する習慣も身につき、辞書の使用方法にも関心がいかざるを得なくなるはずです。また、大学側も単なる丸暗記の知識問題(=「落とす」問題)を排除せざるをえなくなり、知識を活用させる問題へと移行することで、上に述べた「入れる」機能へと重点がうつっていくのではないでしょうか。 なにしろ、「辞書をひけない大学生」では困りますから、せめて入試では辞書をひかせて考えさせる問題をつくってくれないと…。

2004/12/16

ちなみに

「受験英語のナニが悪い?」というコラムは、私が執筆してSESで以前に配布したNews Letterに掲載したものを修正して収録したものです。

2004/12/14

受験英語のナニが悪い?(1)

●受験英語のナニが悪い!?
 「受験英語のナニが悪い!?」というタイトルには、二つの意味があります。一つは、「受験英語の悪い点はどこにあるのか」、ということであり、もう一つは、「受験英語のナニが悪い!?受験英語だっていいじゃないか!!」という受験英語擁護論でもあります。

 私は、「受験英語」を生業として日々の糧を得ています。ですから、「受験英語」がなくなってしまうということは、私の生計が途絶え、一家が路頭に迷うことを意味します。とはいえ、そういうつもりで「受験英語」を擁護しよう、というわけではありません。

 世間一般の人々が「受験英語」に対して抱くネガティブな感情、「受験英語」に対する無理解から生じる誤解をどうにかして解き、「受験英語だってこんなにいいものなんですよ」ということを明らかにしたいのです。

 もちろん、私は「受験英語万歳!!」ともろ手をあげて受験英語を賛美するつもりなど毛頭ありません。「受験英語」の中にもどうしょうもない問題、悪問、珍問、愚問は存在します。それらについては、きちんと根拠をもって批判するべきだと考えています。

 ですから、これからお話しするのは、「受験英語」を擁護しつつ、かつ、「受験英語」の悪しき点を分析・批判し、より良い「受験英語」を目指すにはどうすればよいのか、ということになります。


●「受験英語」とは何か?
 さて、そもそも、「受験英語」とは何でしょうか?

 入試の時期が終わると、毎年のようにどこかしらのメディアが「こんな悪問が出た」といって入試問題を槍玉にあげます。あるいは、「日本人が中学・高校・大学と10年間も英語を学んでいるのに一向に英語を話すことができないのは、受験英語のせいだ!!」という紋切り型の言説も耳にタコができるくらい聞いてきたことと思います。

 そして、「受験英語」を批判する矛先は予備校や塾などの教育産業に向けられ、教育産業があたかも「受験英語製造の元凶」であるかのように非難されてきました。

 しかし、よくよく考えてみれば、「受験英語」を生み出しているのは誰でしょうか?入試問題をつくっているのは受験産業ではありません(最近は、某大手予備校が「入試問題を作成します」と公表してメディアで報じられていますが…)。そう、ほかでもない、大学なのです。教育産業は、それを拡大再生産しているにすぎないのです(だからといって、教育産業に全く非がない、というつもりはありません。教育産業は、いわば、「フィルター」としての役目を果たし、悪問や愚問が再生産されないように機能するべきあり、それができなければ「教育」産業ではなく、単なる教育「産業」になります)。

 ですから、まずはここで「受験英語」の定義をします。

 〈◎受験英語=大学および大学入試センターがこれまで入試に出題した英語問題の総体〉

●「受験英語」の何が悪い点なのか?
 それでは受験英語のどこに問題点があるのでしょうか?

 高校の教育現場からしばしば耳にするのは、次のような嘆声です。

 「高校は大学受験のために存在しているのではない。にもかかわらず、大学受験に左右されてしまい、教育内容も受験を意識したものにせざるを得ない。」

 実際、高校の教科書をみると、過去に大学入試問題で出題された英文、もしくは、出題はされていないものの、出題された文章と同じ筆者(あるいは同じ著作)からの引用が多く見受けられます。また、各高校が独自に実施している「実力テスト」の内容を見ると、入試問題をそのまま(もしくは多少手を加えて)引用していることが多く見受けられます。

 少子化にもかかわらず、大学の進学率が年々わずかながら上昇している現状においては、高校が大学受験の準備をする場としてある程度機能を果たさざるを得ない、というのは不可避の状況だと思いますが、そうなると、「受験英語」の質がそのまま高校までの英語教育の質を決定する、ということになります。そこで問題になるのが、「受験英語」の質です。

 2002年1月に実施されたセンター試験において、以下のような問題が出題されました。

●下線部の中で最も強く発音するものを1つ選びなさい。
Jim: What job do you eventually want to have?
Rie: I haven’t thought about it. Have you?
  1. haven’t  2. thought  3. about   4. it

 センターが発表した正解は2のthoughtでした。おそらく、ほとんどの人が1のhaven’tを選んだと思います。

 結論から言えば、これは、典型的な悪問の例であると私は考えています。これが悪問である根拠としては、

 (1) haven’tではなくthoughtを強く読む根拠が曖昧(※根拠としては、haveは助動詞であって強く読む必要がないため、内容を有しているthoughtを強く読む、といったことなのでしょうが、元来、thinkは弱音で発音されるものです。ですからこの場合、「どんな仕事をしたい?」「まだ〈考えても〉いないよ」と新情報としてthoughtを強調している、というべきなのかもしれません)。
 (2) このような「文強勢問題」は、イントネーションが場面によって、あるいは人によって変わることもあり、一概に正解を出しづらい。
といったことがあげられます。

 最も大きな問題は、これがセンター試験で出題された、ということです。ご存知のように、大学入試センター試験は、ほとんどの国公立大学を受験するのに必要な試験であり、さらに、現在では約300の私立大学もセンター試験による選抜方式を導入しています。いわば、日本で最も影響力のある入試いうことになります。

 この問題は、おそらく、今後、さまざまな問題集や参考書に掲載され、haven’tではなくthoughtを強く発音するのはなぜか、についての解説があれこれと書かれることでしょう。また、そうした問題集や参考書が高校の英語教育の現場で導入され、生徒はhaven’tとthoughtの発音について「覚えなければならない」と躍起になって勉強するでしょうし、進路を決定するのに用いられる模擬試験、特にセンター試験を模してつくられる「マーク模試」にもこうした内容が出題されることでしょう。

 しかし、このような問題に対する考え方が、英語を学ぶうえで果たして必要不可欠な知識といえるのでしょうか?haven’tではなくthoughtを強く発音しなければならない、といった知識が、英語を用いて生活する上で果たして必要なことなのでしょうか?

 実は、「受験英語」の最大の問題点は、まさにここにあります。何をもって良問とするか、あるいは悪問とするかが不明瞭のまま、木でいえば「幹」にあたる部分と「枝葉」にあたる部分とがごちゃ混ぜになって出題され、それが教育産業によって拡大再生産される、そのシステムこそが最大の問題なのです(もちろん、これは英語に限ったことではありません)。

 しかし、入試問題を事前にチェックすることなどできませんし、入試問題をチェックして良問/悪問の判別をおこなうシステム自体、存在していません。また、良問/悪問の区別についても、万人の同意を得られるような区別は存在しません。

 そうなると、先ほど述べたように、教育産業が「フィルター」としての機能を果たし、よりよい英語教育を創りだすために「何を再生産すべきか」を考えていかねばならないのです。


●良問/悪問とは何か?
 ところで、これまで「良問」「悪問」という区分を暫定的におこなってきましたが、そもそも、良問とは、あるいは、悪問とは何でしょうか?

 私見を述べれば、私は、良問/悪問には絶対的な区切りはない、と考えています。重要なのは、良問/悪問の区分が、必要とされている学力によって変化しうる、ということではないでしょうか。

 以前、文部省の中央教育審議会(中教審)のある委員(某私立大学理事)が「大学入試から英語を廃止しよう」という提言をして、話題を巻き起こしたことがありました。彼の提言の趣旨は以下の通りです。

 (1)中学~大学まで10年間英語を学習しても話すことができない。これは、実用性に欠ける受験英語が元凶であり、このような役にたたない英語は廃止するべきである。
 (2) 受験科目に英語が必要な場合、英検2級や論文入試で代用する。

 この提言を受けてNHKが特集番組を放映したのですが、その中で、native speakerに日本の大学入試問題を読ませて感想を聞く、という場面がありました。

 そのnative speakerは一通り目を通して「これは私にはさっぱりわかりません」と答え、「native speakerでも理解できない(難しいだけで何の役にも立たない)入試問題が出されている」、という論調で話が展開しました。

 この場面を見た人は誰しも、「大学入試では、native speakerが読んでも理解できないような難問を出しているのか…そんな入試は廃止すべきだな」という感想を持ったに違いありません。

 しかし、ここには大きな問題が潜んでいます。ここでnative speakerに読ませた入試問題は、果たしてどの大学のものであったのかが公表されていなかったのです。

 私は、ちらりと映った場面から、その問題が慶應義塾大学の藤沢キャンパス(慶応SFC)の環境情報学部・総合政策学部のいずれかのものであることがわかりました。

 この両学部の問題は、おそらく、日本の大学入試の中でもっとも長い英文が出され、その内容も、哲学、宇宙物理学、行動学、生物学、環境学、社会学、人類学、心理学、政治学、法学などのさまざまな分野から、かなり難度の高いものが選ばれています。

 いわば、日本の大学入試問題の「スタンダード」と呼ぶにはあまりにも問題があるものなのです。それをあたかも日
本の大学入試を代表する問題のように報じ、「native speakerにも読めない難問が出されているから、大学入試英語を廃止すべきだ」とつなげるのは、あまりにも偏った報道ではないでしょうか。おそらく、そのnative speakerは、上に述べたようなさまざまな学問分野についての理解がなかったために、その英文を読まされて「わからない」と答えたのでしょう。

 さて、この慶応SFCの問題ですが、果たして「悪問」と呼べるでしょうか?「難度が高いから悪問」と考えるのであれば、易しい問題ほど良問になります。だとすれば、大学受験でThis is a pen. It is long.という英文を繰り返し出題すれば済むことです。あるいは、「馴染みのない分野の英文を出すのは悪問」と考える人もいるかもしれませんが、慶応SFCで出題された英文は、いずれも、大学に入ってから学ぶ分野と関連しており、逆に、受験生に馴染みのある内容ばかり出題するような問題を作りつづければ、受験生は「この大学に合格するには自分の知っていることだけでいい」という姿勢を持ってしまいかねません。

 結論から言えば、この問題は「良問」であると私は思います。しかし、それはあくまでも、慶応SFCで出題される限りにおいて、という条件つきです。たとえば、センター試験でこのような問題を出題したらどうなるでしょうか?もちろん、非難が集中するはずです。

 そうなると、「良問/悪問」絶対的(普遍的)な尺度は存在せず、各大学が受験生に対して要求する資質が何であるかがはっきりとわかるかたちで反映されている問題が「良問」である、と言えるのではないでしょうか。極論ですが、たとえば、「漢字をたくさん知っている学生が欲しい」という大学があるとすれば、その大学にとっての良問とは「漢字の知識問題」にほかならず、全ての問題を漢字の書き取り問題にしてしまえばいいわけです(もちろん、現実的にはそのような大学は考えられませんが)。

 現在、各大学が少子化のなかで生き残りをかけて必死にその術を模索しています。独立行政法人となる国公立大学とてその例外ではありません。そのなかで、良い学生を獲得するにはどうすればいいのか、学力低下に歯止めをかけるにはどうすればよいのかが議論されていますが、私が思うに、大学はまず、自らの教育理念と教育内容を反映させた入試問題を作成し、それがどのような狙いのもとにつくられているのかを受験生に対して事前に明らかにするべきではないでしょうか。

 大学が受験生に自らの主張を訴える最大のメディアは「入試問題」です。これからは入試問題を単なる「選抜の道具」ではなく、「よりよい学生を育てるための方法の一つ」と考える〈パラダイム転換〉が必要なのです。

2004/12/13

さてさて

「ブログ」を本格的に使ってみようと思いたったはいいけれど、まだきちんとシステムを飲み込めていないぞ…(^_^;。
見づらかったり不手際もあると思いますが、よろしくお願いします。

小論文作法

【1】小論文とは何か

 小論文は、「小」とありますが、「論文」です。では、「論文」とはなんでしょうか。ひとくちに「論文」といっても、さまざまな形式がありますが、ここではごく大まかに、次のように定義しておきます。

 論文=客観的事実にもとづいて、論理的に自分の意見を述べた文章。
 この定義には、3つのポイントがあります。

 ①「客観的事実」
 ②「論理的に」
 ③「自分の意見」
⇒この3つがそろわなければ論文として成立しない。

 そして、小論文でもっとも大切なものは、「説得力」なのです。

 よく、「小論文には決まった解答はない」といわれます。たしかに、記号選択式の問題とは異なり、唯一絶対の解答があるわけではありません。しかし、「良い小論文」と「悪い小論文」という厳然たる区別は存在します。その境界線にあたるのが「説得力」なのです。

【2】説得力のある文章を書くために必要なこと
 では、「説得力」のある文章を書くためには、何が必要なのでしょうか?おそらく、ほとんどの人は、「説得力のある文章を書くためには、そうした文章が書ける発想やセンスが必要だ」と思うかもしれません。しかし、それ以前に必要なのが、実は、「知識」なのです。

 たしかに、発想は大切です。しかし、そもそも、知識が全く無い状態では、発想することなど不可能です。たとえば、「消しゴムつき鉛筆」という道具がありますが、これは、「消しゴム」と「鉛筆」という二つの道具があって初めて生まれた発想です。また、テレビで、落語家がその場で観客から三つの「お題」を与えられ、即興で噺をつくるという場面を見たことがある人もいると思いますが、これとて、落語だけでなく、生活一般にまつわるさまざまな知識が無ければ噺をつくりだすことなどできません。

 ですから、「小論文は暗記科目ではないから知識がなくても書ける」とか「小論文でもっとも大切なのは『発想』だ」と考えて、「知識」を軽視している人には、説得力のある小論文など書くことができないのです。

 いま、「知識」といいましたが、もしも自分がお笑い芸人だとしたら、これを「ネタ」と言い換えてもいいでしょう。持ちネタのない芸人は、客を笑わせることなどできません。そして、もちネタが豊富であればあるほど、どのような客でも対応することができるはずです。

 小論文の入試では、学部特性を反映したものが多く出題される(たとえば、法学部であれば法律や政治に関連した内容が出題されるなど)傾向にあるとはいえ、どのようなテーマが出題されるのかをあらかじめ予測することはできません。だとすれば、どのようなテーマが出題されても説得力のある小論文が書けるように、できる限り多くのもちネタを準備しておく必要があります。

【3】どのような知識が必要なのか
 では、なぜ、そして、どのような「知識」が必要なのか。それは、先ほどの定義で述べた①の「客観的事実」とかかわりがあります。

 たとえば、環境問題について出題された場合、「環境破壊は悪いことだ。地球環境をもっと大切にしなければならない」という「意見」は誰にでも書くことができます。しかし、それだけでは全く説得力がありません。なぜならば、「客観的事実」に裏づけされていないからです。

 ですから、自分の「意見」に説得力をもたせるためにも、それを支える「根拠」となる「客観的事実」を知識として習得していなければならないのです。ところがここで、「客観的」ということが問題となります。

 「客観的」ということばには、「まわりから見て」という意味もありますが、ここでは、「誰が見ても正しいと判断できること」と定義しておきます。ただし、小論文における「客観的事実」とは、「読み手(=大学の教員)がその正しさを判断できる事実」ということになります

 具体的に言えば、「隣の家のポチが仔犬を産んだとき、私は、命の大切さを知った」という記述における「隣の家のポチが仔犬を産んだ」という事実は、たとえそれが正しい内容であっても、読み手である大学の教員にはその正しさを判断することはできません。いちいち受験生の隣の家を調べて電話をかけて、「おたくのポチが仔犬を産んだのは本当ですか」などと尋ねることはありませんから。ですから、神話3にあるように、自分の体験にもとづいて小論文を書くことは原則としてできません(※設問に「自らの体験にもとづいて」という指示がある場合は除く)。

 そうなると、読み手である大学の教員にとって正しさが判断できるような客観的事実を知識として身につけておかねばなりません。そうした類の客観的事実には、大きくわけて以下の3つのものがあります。

 ①社会的出来事…例:1995年1月17日に阪神大震災が起こった。
 →新聞・テレビなどのメディアで報じられたこと。
 ②本・論文に書かれていること…例:哲学者ルネ・デカルトは、「われ思う、ゆえに我あり」と言った。
 →本を見れば、この発言が正しいかどうかがわかる。
 ③発言の出所がはっきりしている言説…例:大阪の医師、○○△△は講演会で「臓器移植は科学的に問題が生じる」と発言した。
 →①・②に比べると客観性にやや欠けるが、その言説の正しさを確認することはできる。

 ここで注意しなければならないのは、「本であればなんでも良いのか」ということです。たとえば、「私はドラえもんののび太とジャイアンの友情から多くのことを学んだ」などと書いても、大学の教員には通じない可能性があります(※これは何も、「ドラえもん」が悪いとか、漫画がくだらないということではありません。大学の教員は、自分の専門分野に関しては、並外れた知識をもっていますが、逆に、高校生が「常識」と思っているようなことを知らないことが往々にしてあるということです。実際、私の知っている大学教員にも、ドラえもんは知っているけれど、ジャイアンやスネ夫は知らない、という人がいました)。ですから、受験生側の常識に大学の教員が合わせる、ということを考えずに、受験生が彼らの常識の土俵に上がって勝負する、という姿勢をもつことが必要です。

 よく、「小論文の勉強には本や新聞をたくさん読め」と言われますが、これは、文章を数多く読めば自然に小論文が書けるようになる、ということではなく、大学の教員を説得できるような「客観的事実」をみつけるということなのです

 なお、新聞の社説やコラムを読め、という指導がなされることがありますが、社説やコラムはその筆者(および新聞社)の「意見」に過ぎませんから、そうした文章を読む際は、それが唯一絶対に正しいとは考えずに、あくまでも意見の一つである、ということに配慮しながら、批判的(=分析的)に読む必要があります。

 客観的事実を効果的に用いた例として、私が以前添削したある生徒の答案のことについてお話ししたいと思います。

 そのときの出題テーマは「障害者の自己決定権について」というもので、ある文章を読んで、このテーマについて自らの見解を述べる形式でした。

 大半の生徒は「障害者の自己決定権は必要である」という意見を書いただけで、あとは課題文をただなぞったような答案ばかりでしたが、その中で目を引いたのが、「障害者プロレス・『ドッグレッグス』」に言及した答案でした。

 「障害者プロレスは、障害者が自らの意志で体を痛めつけ、見世物になる決定を行っている。これこそがまさに障害者の自己決定権ではないか」という内容の答案で、残念ながら最後まで書ききれてはいませんでしたが、この具体例が出てきただけで他の答案とは比較にならない素晴らしいものになっていました。

 彼はプロレスの大ファンで、雑誌などでたまたまドッグレッグスのことを知っていたためにそのことを小論文の答案に入れたのですが、似たりよったりの答案の中で彼独自のこの具体例だけが光っていました。

 先ほど、論文の定義の中で「自分の意見を述べる」と書きましたが、「意見」のレベルでは、どの受験生も大差はつきません。どんなに「発想の転換」を図ろうとしても、「誰も思いつかなかったような意見」など思いつくことはまず不可能です。

 だからこそ、勝負は、根拠となる「客観的事実」をどれだけ仕入れているか、つまり、「持ちネタ」にかかってくるのです。私が先ほどから「説得力のある答案を書くためには知識が必要だ」と述べているのは、このためなのです。どんなテーマが出題されても、そのテーマについてなにか一つ、説得力のある客観的事実を「ネタ」として持ってさえいれば、それだけで優れた答案に近づけます。勝負は発想ではありません。「事実をもって語らしめる」ことこそが、小論文には必要なのです。

 ですから、日頃からさまざまなジャンルの本を読み、新聞を読み、ニュースを見るなどして、貪欲に「ネタ」を仕入れてください。

 そして、「ネタ」の仕入れ先として便利なのが、現代文や小論文の課題文です。ただし、この場合は、筆者と出典がはっきりしているものに限ります。

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