大学生の時、社会言語学者の田中克彦さん( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%85%8B%E5%BD%A6 )をお招きして大学で講演をしていただいたことがある。これは、社会学部の学内学会という組織のイベントで、たまたまその時ぼくは役員をしていたので、田中さんに直接交渉して来ていただくこととなった。
そのころぼくは、ことばと差別の関係について考えていて、いわゆる「差別語」について田中さんがどのようにお考えなのかを尋ねてみたいと思っていた。
田中さんは、ことば・差別・権力・国家といった問題について多くの著作を書いておられるが、ぼくはたまたま浪人生の時に田中さんの『ことばと国家』 (岩波新書)
を原典とする現代文の入試問題に出会ったのがきっかけだった。
ぼくが考えていたのは、「差別語」なるものがはたして存在するのかどうか、ということだった。「差別語」というとわかりにいかもしれないが、「放送禁止用語」に置き換えて考えるとわかりやすいかもしれない。
たとえば、「きちがい」ということばは、いわゆる放送禁止用語であり、テレビやラジオで用いることはできない。大学の図書館で放送禁止用語や差別語に関する文献を借りて読んだが、八百屋や魚屋など「~屋」で終わる商売名も基本的には放送禁止用語に入ると知って驚いたことを覚えている。
「~屋」の件については http://www.jiko.tv/housoukinshi/sabetsu3.html によると、
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「その多くが、特定の日に金銭の授受が行なわれる商慣習を持つ商いでなかったことから、軽蔑を込めて用いられる。転じて一般的な職業名につなげて軽蔑・自嘲を込めた用いられかたをする場合がある。」
(中略)
「小売・サービス業種を指す場合、「八百屋さん」「魚屋さん」などのように「**屋さん」とすれば問題ないとされる。(ただし、「質屋」のように、法律(質屋営業法)上の用語として定義されているものもある)くず屋、バタ屋などはメディアでは廃品回収業、さらには「再生資源回収業」なる語に言い換えられている。」
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※差別語/放送禁止用語については以下のページも参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%88%A5%E7%94%A8%E8%AA%9E
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109808945
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%91%89%E7%8B%A9%E3%82%8A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9
差別語や放送禁止用語は「他者を差別する意味が含まれているから使うべきではない」という見解に基づいている。確かに、誰かを傷つけるためにつくられたことばは、使うべきではないと思う。
だが、
[1] 差別語を使わなければ、差別はなくなるのか
[2] 仮に、使った本人が意図していなくても、差別だと受け止められた場合、その表現を使うべきではないのか(「ことば狩り」の問題)
といった疑問が生じる。
差別語が差別語たるゆえんは、そのことばが「指し示す」対象となる人々(この場合、個人ではなく、必ず集団である)を貶めたり傷つけたりするからである。だとすれば、ある特定のことばを「差別語/放送禁止用語」として使うことを禁じたり忌避したりした場合、そのことばはすたれていく。しかしながら、そのことばが「指し示す」人々は変わらずに存在し、その人々に対する差別は残り続ける可能性がある。また、あることばを使わなくなったとしても、それに代わる他の言葉が使われることもある。
また、いわゆる「差別語/放送禁止用語」とされていないことばだとしても、そのことばが「差別的だ」とみなされた場合、そのことばを使うことを一律に禁じたり回避したりする必要はあるのであろうか。言い方を変えれば、どんなことばでも、使い方次第では「差別的だ」と受け止められる可能性はあるわけで、それを片っ端から「差別語/放送禁止用語」と決めていったら、どんなことばも使えなくなってしまう(これが「ことば狩り」の問題につながっていく)可能性がある。
あることばを一律に「差別語」とみなすことで、かえって差別の本質が隠されてしまうのではないか、「臭いものにふた」ということばがあるが、「クレームが来るのが嫌だから、とにかく使わなきゃいいんだ」と問題を先送りにしてお茶を濁しているだけではないのか。
そんなことを考えていたので、講演の後の質疑応答で、田中さんに「いわゆる〈差別語〉とされることばがあり、〈ことば狩り〉との問題が指摘されていますが、田中先生はどうお考えですか」という趣旨の質問をぶつけてみた。
田中さんは一言、「それは、ことばを使う人のセンスの問題ですね」と答えた。
この回答に100%満足できた、というわけではない。その時はそれ以上深く突っ込んで尋ねることはしなかったけれど、「センス」が何を示しているのかも漠然としか理解できていなかった。
この回答を「厳密ではない」と批判することもできたかもしれないし、ぼく自身はいま、ことばは「意味」ではなく「用法(ルール)」がすべてである、というヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論の立場を重視しているため、いまでもこの回答には釈然としないものがあるが、「センス」という観点は重要だと思う。
理詰めで厳密に考えても答えは出ない。むしろ、「センス(感覚・分別・良識・感性)」の問題として、その「センス」をどのように共有したり批判したりするかが重要なのではないか、ということなのだろうと解釈している(もっとも、「センス」という主観的要素にすべてを還元することが決して望ましいとも思えないのだが)。
さて、ことばの「センス」に関して言うと、どうも「お上」のつくることばには「センス」のかけらもないものが多いようだ。
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「GKB47宣言!」自殺対策で政府がキャッチフレーズ 「違和感ある」の声も
産経新聞 1月23日(月)16時39分配信
自殺者数が14年連続3万人を超えるなか、政府が毎年3月に行う自殺対策強化月間のキャッチフレーズが、今年度は「あなたもGKB47宣言!」に決まった。23日に開かれた内閣府の自殺対策推進会議では、委員から「自殺対策としては違和感がある」と疑問の声が上がった。
強化月間の今年度のテーマは「全員参加」。GKBは、「ゲートキーパーベーシック」の頭文字をつなげたもの。自殺対策では、悩んでいる人に気づいて声をかけ、必要な支援につなげる存在を「ゲートキーパー」と呼んでいる。「47」には、47都道府県を初め、国民に取り組みが広がることを示したものだが、人気アイドルグループ「AKB48」にひっかけているのは一目瞭然だ。
ある委員は「ブームにあやかろうという意図はわからなくもないが、自殺対策は継続的に、地道に取り組むもの。キャッチフレーズは地味でも普遍性や本質を示すのが大事」と批判的。別の委員は「もっとあたたかな、現状を反映した言葉のほうが良いのではないか。似たようなキャンペーンはほかにもあり、埋没する恐れもある」と話す。
今後、ポスターや広告などでこのフレーズが使われる予定で、内閣府の担当者は「全員参加というテーマにあわせ、広く国民に親身に訴えることができるということで決まった」と説明している。
( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120123-00000540-san-soci )
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ぼくはAKB48は名前ぐらいしか知らず、メンバーの顔と名前も全く一致しないが、このグループの持つ、明るく元気はつらつとした健康的なイメージを自殺対策に援用することはまずできないし、すべきではないであろう。
自殺対策推進会議(このネーミングもどうかと思うが)の提唱する「GKB47」という名前からは、「ああ、死にたい…」と思っている人のところに、AKB48のようにかわいらしい女の子たちが集まって「そんなことしちゃダメだよ!」「前向きに生きていこうよ!」と応援する、という何とも間の抜けた構図しか思い浮かばないのだ。これでは自殺志願者から「大きなお世話だ!」「お前らに何がわかる!」と一括されてオシマイであろう。
そもそも、日本には江戸時代には「切腹」という風習があり、「命で償う」「命がけ」ということばもあるくらいなのだから、自殺を「罪」ととらえることは難しい。宗教で自殺が禁じられている文化でも自殺者は出るはずだし、語弊があるかもしれないが、自殺する人は、周囲が何を言おうとも結局はみずから死を選んでしまうものだ、と思っている。
もしぼくがこのプロジェクトで何かキャッチフレーズを作れ、と言われたらどうするであろうか、と考えた。
安直かもしれないが、
「命は、最後の切り札だ。」
とするだろう。そして、その下に
「みずから命を絶つという選択を、
肯定することは決してできません。
しかし、何か問題を抱えて、
どうにもならなくなった時、
命を絶つという選択をせざるをえない、
ということもあるのかもしれません。
でも、本当に、あなたが抱えている問題は、
あなたの命を引き替えにするような問題なのでしょうか。
命は、最後の切り札です。
その切り札を切る以前に、
何かできることがあるかもしれません。
じぶん一人で抱え込むよりも、
まずは相談してください。
電話番号 (XX) XXX-XXXX 」
といったメッセージを書くであろう。
もし、若者に人気のあるキャラクターを使って若年層にアピールをするということであれば、アイドルグループではなく、たとえば『ONE PIECE』や『スラムダンク』のように、仲間に支えられながら、闘いを通じて成長していく物語を使うであろう。
AKB48に限らず、実在のアイドルグループは、ぼくたちの日常生活の闘いからの「逃避の場」であると言える。だから、アイドルが自殺防止を呼び掛けても、一時的な現実逃避を奨励しているようにしか受け止められない可能性がある(もちろん、アイドルはアイドルで毎日、奮闘努力しているであろうし、たとえば、自殺を考えたことがあったり、実行して未遂に終わったアイドルを使ってキャンペーンを張る、ということもありうるかもしれないが…)。
現実の生活の中で、人はどう闘うべきか。それを伝えられる「物語」を使うことが、大規模な自殺防止キャンペーンとしては適切だと思う(自殺志願者の個々の理由は千差万別だから、これがすべての人に有効だとは思わないが)。
大学の時、作家・エッセイストの朴慶南(パク・キョンナム)さん( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%85%B6%E5%8D%97 )の講演を聞いたことがある。その後、彼女の著作・『命さえ忘れなきゃ』 (シリーズ生きる)
を読んだ。その中の「おっちょこちょいの忘れん坊で、あちこちにいろんなものを忘れてしまうことがあるけれど、命さえわすれなけりゃ何とかなるものよ」という趣旨のメッセージ。それ以来、ぼくは何かつらいことがあるたびに「命さえ忘れなきゃ」ということばを思い浮かべるようになった。
ぼくは、じぶんの授業を受けてくださった生徒さんがみずからの命を絶つような選択をしてほしいとは思わない。だから、ぼくにできることは、ほんのささやかではあるけれど、生徒さんがこの苦しい現実の中でどう生きていけばよいのか、それについて「こんな選択肢もあるよ」ということを授業の中で伝えていくことだと思う。それに、学ぶことそのものが、じぶんの生きる道を切り開く武器にもなるのだから、その武器を身に着けてほしいと願いながら、毎日の授業に臨んでいる。
格好をつけるつもりはない。それに、ぼくは根本的にだらしない人間なので、じぶんのこの無様な姿をさらけだし、悪戦苦闘する姿を見せながら、それでも生きているんだよ、ってことが伝えられればそれに越したことはないと思っている。
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